風に靡く歌声-1

 健太がビールを片手に外に出ると、糸のように細い月が空に架かっていた。今日の空は澄んでいて、星が無数に輝いている。夏の日差しは強く、日中は連日30度を超す。しかし夜の風は少しだけ熱が取れ、涼むには丁度いい。


 蛙の鳴き声と虫の声が空気を満たしている。


草むらの音楽隊の主役はまだ蛙だ。だがそこに秋の虫の声が遠慮がちに混じっていた。北海道の夏は短いのだ。


 風に乗って、歌声が聞こえてきた。


 ――夕闇晴れて 秋風吹き

   月影落ちて 鈴虫鳴く

   思えば遠き 故郷の空

   ああ 我が父母 いかにおわす


 声の方を見ると、白いスエットの上下を来たアキが空を見上げていた。


 健太が近付く足音に気付き、アキはあっと声を上げて俯いた。

 「なんて歌?」

 アキは恥ずかしそうに首を横に振り、身体の前で指を絡ませた。

 「分かりません。小さいときに、お婆ちゃんが歌っていた歌で。今、ふっと思い出したの……。」

 「歌の上手なおばあちゃんかい?」


 アキは小さく頷く。その唇は綻んでいる。以前身内の話を聞くと、苦しそうに口元を歪めていた。しかし、祖母の話をするアキは少し嬉しそうだ。微笑みを浮かべたまま、小さな声で話しを続ける。


 「お婆ちゃんだけがやさしくて、大好きだったなって思い出してから、少しずつ思い出が蘇ってくるようになりました。その度に、嬉しくて……。」

 「……そっか。」

 俯くアキの横顔を見つめる。幼少期のアキに、愛を注いだ人がいたことに安堵を覚える。そんな人が一人でもいなければ、彼女のこれまでの人生は、救いようのないほど寂しいものであるような気がした。


 出来ることなら、これからのアキの人生を、自分の力で豊かにしたい。猛だけだった宝物を、両手で抱えきれないほどに増やしたい。


 ムクムクと湧き上がる熱い想いを、まだ伝える勇気がなくて持て余してしまう。


 見上げた空に知っている星座を探しながら心を冷ます。その耳に、先ほどアキが口ずさんでいた歌が蘇った。


 「さっきの歌さ、メロディーは麦畑と一緒だな。」

 そう言いながら、健太は左手に持っていたまだ開けていない缶ビールを差し出した。アキは戸惑いながら両手で受け取った。


 「麦畑?」

 首をかしげる。


 「そうそう。……飲みなよ。一緒に飲もうぜ。」

 「え……。はい……。」


 アキは細い指でプロトップを開けた。プシュッと空気の抜ける音がする。健太は自分の缶をアキの缶に軽く当て、戯けるように麦畑を歌い出す。


 ――誰かと誰かが 麦畑で

   こっそりキスした 

   いいじゃないの

   私にゃいい人いないけれど

   誰にも好かれるネ 麦畑で


 「本当だ。メロディーが一緒。」

 アキは驚いた顔をした。それから、指を顎に当ててふっと笑う。


 「健太さんの歌みたい。」


 「俺の?」


 アキは恥ずかしそうに頷く。

 「麦畑で、誰にでも好かれるって。」


 へへ、と健太は笑った。アキが自分の事をそんな風に思っているのかとこそばゆい気持ちになる。


 「いい人いないけれどってのも、な。」

 そう言いながら早くなる鼓動を持て余し、斜め上に視線を向ける。


 「……いないんですか?」

 アキが問いかけた。


 その声はとても小さかった。上目遣いに向けられた瞳が揺れている。健太は頷き、わざとぶっきらぼうな口調で言った。


 「……気になる人は、いるけどな。」


 チラリとアキを見ると視線がぶつかった。アキははっと息をつき、顔を赤らめて俯いた。健太の心臓が高鳴る。


 ――これは、イケるときの女の反応では無いか?

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