ホルモンとビール攻撃-3

 田舎町の万屋の娘との結婚は、上流階級意識の強い親族や、自分の身内を結婚相手にと画策している人間にとって納得いくものでは無いだろう。


 涼真はジョッキを煽った。

 そして、ぽつりと呟く。


 「心が勝手に動いたんや……。」


 意外な言葉に、保志は息を飲んだ。涼真は自虐的な笑みを口元に浮かべ、テーブルに肘を突いた。


 「彼女は、あまりにも真っ直ぐに僕を愛そうとしてくれるんや。……彼女を失ったら、僕の人生はあまりにも寂しいものになる気がする。」

 「本気で、惚れたっちゅう訳か?」

 「そうやね。」


 ピッチャーからビールをつぎ足すと、すぐに涼真はそれを飲み干した。ぐらりとその頭が揺れて、重力に抗うのをやめたように項垂れる。


 『心』


 涼真がこの言葉を吐いたことに、安堵を覚えた。

 家政婦に手を引かれ、駒子の元へやって来た涼真は精巧に出来たアンドロイドのようだった。幼稚園が終わってから夕刻まで、駒子の元で行儀作法を教わることになっていたが、何を言われても素直に「はい。」と言うだけで、感情が動くことはなかった。


 『あんた、あの上品なお子を町一番の悪戯坊主にしてみなさい。』

 母親に命じられたが、この気味の悪い子供の相手をするのは、正直嫌だった。

 『心を動かして沢山の経験をしなければ、何も学ぶことが出来ません。悪いことを沢山教えてあげなさい。あんたはそんなんが得意でしょう。』


 最初は渋々、相手をした。木登りを教えて降りられなくなったのを指をさして笑ったり、水鉄砲で急襲して水浸しにしたり。怒らせて、怖がらせて、笑わせて。自分から楽しむようになるまで、随分時間がかかったものだ。


 人並みの豊かな心を持ったら、その心で広い世界を見、自由を満喫したら良い。そう思い、ストレートに進めるはずの大学ではなく、一度道を外れてみたらとアドバイスした。涼真は、北海道でデザインを学び、何かを生み出す技術を身につけると決めた。


 結果的に、輝季から涼真を奪うことになってしまった。


 「人を愛する資格なんて、自分にあるんやろうか……。」


 涼真の声で我に返る。半開きの視線をテーブルに向けて、ぽつりと呟やいたその言葉に大きく心臓が跳ねる。


 もしかしたら、とは思っていた。


 輝季が死んでから涼真は一変し、ネチネチと責めるような態度を取るようになった。涼真が自分を敵視するのは、大事な弟を奪った犯人だからだ。だがそれだけでは無いのかも知れない。危惧していることはあったが、気付かない振りをしてしまった。


 敵視する態度を受け止められるほど、当時の自分には余裕が無かった。涼真はもう大人だ。傷付いたとしても自分でどうにか立ち直るだろう。その為ならいくらでも悪者になる。


だが、その考えは間違っていた。


 涼真もまた、救いの手を必要としていた。その手を誰も取ってやらなかった。


 溢れそうになる感情を、ビールと共に流し込んだ。


 「……あの、点は。」

 唇が、鉛のように感じる。無理矢理にこじ開けて言葉を外に押し出していく。


 「あの点は、さんずいを書こうとしたんかもしれへんし。」


 『お父さん』。その言葉の次に、ノートに濃く小さな点があった。次に誰かの名を書こうとし、思いとどまったのだと思われる。


 「お母さん、と書こうとしたんかも知れへんし、先生、と書こうとしたんかも知れへんし、誰か別のクラスメートの名前を書こうとしたんかも知れへんし……。」


 涼真は、赤い目をこちらに向けた。


 「でも、書かんかった。輝季が恨みを向けたのは、自分に手を下したクラスメートと、そいつらに自分の身を差し出した父親や。それ以外の人の名前は、書かへんかった。だから、お前が輝季のことで苦しむ必要は何も無い。」


 う、と涼真の口元が小さな音を立てた。だが唇は、それ以上の音を漏らさぬようにときつく結ばれる。


 感情を表に出さない。それは木寿屋の社長であるために、身につけた鎧のようなものなのだろう。


 一瞬揺れた心を律するように、涼真は大きく息を吸って吐き出した。そして、手酌でビールをつぎ足し、勢いよく飲み干した。


 「……輝季が僕の名前を書くとしたら、漢字やなくてひらがなや。輝季が書ける漢字は、小学校の低学年で習う字だけや。そんな事も、知らんかったん。」


 保志は、固く目を瞑り頷いた。


 「ああ、知らんかった。」


 「養護学級に入れてあげたら良かったんや。」

 「そうやな。」

 「幼稚園の先生の言う通りに、早く診断して貰って、必要な療育を受けたら良かったんや。」

 「そうや。そうするべきやった。」


 涼真は拳でテーブルを叩いた。店中に響く音に、一瞬店内がしんと静まる。


 「なんやっ!今更!……輝季を帰せ!僕の……、僕の大事な弟を帰せ!」


 震える声が、涼真の唇から漏れる。言葉と裏腹に顔に浮んでいるのは悲しみだった。怒りの方がまだましだった。肯定も謝罪も、却って悲しみを増すのだろう。保志にはその視線を受け止めることしか出来なかった。

 

 

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