約束
ドアチャイムの音を残して、美葉が去って行った。
背中に彼女の気配を少しでも長く感じていたかった。去った後も、その余韻をずっと。だからその場所から、動けなかった。
体育館にポツンと、木製のキッチンだけがある工房。名前すらも無いこの場所を、樹々と名付けて彼女と築き上げてきた。その場所から、木寿屋の制服を着た彼女は去って行き、もう二度と帰ることは無い。
沢山の思い出が詰まったこの場所からも、家族として受け入れて貰った谷口家からも、去らねばならない。
隣に彼女の家がある。ここに自分がいることで、彼女の居場所を奪ってはいけない。今家具の注文は樋口家のキュリオボードだけだ。これ以降の注文が入る当てはないし、入ったとしても断ろう。今なら、きちんと片を付けて工房を閉めることが出来る。後を濁さぬように仕舞いを付けてここを去り、祖父の会社で一家具職人として生きていこう。
そもそも、自分はそうやって生きていくべきだった。
家具を作るしか能の無い人間が、工房を経営するなど出来るはずが無かった。続けていけたのはひとえに彼女のお陰であり、商売が軌道に乗ったのは仕事を流してくれる保志のお陰だった。一人では、一人の客も来ないまま貯金を使い果たして、数ヶ月のうちに撤退することになっていただろう。
もしも、あの
正人は、そう考えてハッと息を飲んだ。
そもそも、自分がここに来なければ、彼女が実家を離れて京都に行くことも無かったのでは無いか。彼女は公立大学を目指して勉学に励んでいた。自分に出会わなければ、きっと予定通り大学に行き、違う人生を歩んでいただろう。自分は既に、あの女の人生を狂わせてしまったのかも知れない。
出会わなければ良かったのだ、きっと。彼女のためを思うのならば。
けれど、共に過ごした8年と、恋人として過ごした5ヶ月を、消してしまうことは出来ない。この記憶だけを胸にしまって、これから自分は生きていく。
その時、スマートフォンがなった。ポケットから取り出して、メッセージを開く。
美葉からのものだった。
『樹々を続けて欲しい』
そう、綴られていた。
その文字を指でなぞる。震える指で、何度も、何度も。
「はい……。」
正人は小さく呟いた。
「約束します。美葉さんが望むなら、僕は、樹々を続けます。……約束です。」
正人はスマートフォンを握りしめ、その場に蹲った。
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