第二章 保志と涼真と正人の過去
茶席での祝福
「師匠が茶事に招いてくださるなんて、珍しいね。」
涼真はどことなく上機嫌だった。茶事とは茶道界の晩餐会のようなものだ。客は正装して参加し、ホストである亭主に様々な持て成しを受け、会席料理を頂く。この全ての目的は、「一杯の茶を楽しむため」なのだ。美葉は今回の茶事が何のために設けられたのか既に知っていて、胃がキリキリ痛んでいた。
じゃり、と石を踏む音が聞こえた。顔を上げると、寄付を囲む
「毎回笑うなや。」
「ごめんなさい。」
美葉は首を竦めた。その隣にいた涼真が立ち上がる。険しい視線を保志に向けた。
「保志さんも、お招きを受けたん?」
「そうや。」
保志は涼しい顔で頷いた。さっと涼真の顔から血の気が引き、鋭いままの視線が美葉に向けられた。
そこへ、駒子が現われる。迎付という挨拶をしに来たのだ。涼真は顔から表情を消し、駒子の黙礼に返礼した。美葉もそれに習う。保志も普段のがさつな身のこなしを隠して黙礼を返した。
茶道家の駒子は、保志の母である。お互いに反目しているようだが、去年駒子が倒れたときには一目散に駆けつけたらしい。
美葉は入社以来駒子に茶道を習っている。一通り作法は覚えたが、ちょっとした言動で未だに駒子から雷を落とされるのだ。
駒子の茶室は立礼という椅子式である。フローリングを敷き詰めた床にウォールナットの
各々が黙って席に着く。涼真が強ばった顔で鋭い視線を保志に向けている。保志は無表情で正面を見据えて視線をいなしていた。ピリピリするような張り詰めた空気が流れている。その空気を壊したのは給使口から現われた駒子だった。
駒子は立礼机に向かわず、美葉の前に直行した。満面の笑みを浮かべて。伝統と格式を擬人化したような人が、茶席でする行為とは思えない。唖然とする美葉の両手を駒子はぎゅっと握った。
「美葉さん、ご結婚おめでとう。まさか、あの家具職人さんとご結婚されるなんて。なんてお目出度い!今日は、お祝いの席やからね、無礼講です。……保志、なんで正人さんもお呼びせんかったん。」
「……こんな修羅場に連れてきたら、倒れるやろ。」
ぼそりと呟く。
聞こえなかったのか、そもそも息子の返答を聞く気が無いのか、駒子は振り返って克子を呼んだ。駒子の娘であり、保志の妹である克子は白い着物を着て、和紙に包まれた平たいものを捧げ持ち給使口からしずしずと歩いてきた。
「これは、お祝いの品です。訪問着。正人さんとお二人分。家紋も入れておきましたから、お子さんがご結婚されるときにお召しになれます。」
「ほ、訪問着……?」
「子供が結婚て気が早い。本人達がまだ結婚しとらんのに。」
「何言うてんの。人生なんてあっという間です。特に、子育てを始めるとあっという間に時が過ぎるの。早い内に準備しておくに超したことあらへん。」
「訪問着なんて……。そんな高価なもの……。しかも二着も……。」
親子の会話に、狼狽える声がかき消される。
「で、ご結婚は何時なの?美葉さんはまだお若いけど、正人さんは適齢期と違います?」
「三月末で退職して、すぐやろ?早いとこ身を固めんと、美葉を狙うとる輩がちょっかい出して来よるからな。」
保志が目配せをするので、美葉はとりあえずコクコクと頷いた。
「人の恋路を邪魔するなんて無粋な人がおるんやね。涼真さん、あなた上司やねんからそんな節操のない姦賊から美葉さんを守ってあげなさい。」
涼真は口を半開きにして固まっている。駒子は返事を待たずに言葉を続けた。
「で、お式は和装ですか?洋装ですか?まぁ折角やから、どっちも着たらよろしいね。美葉さんやったら、どちらも似合うでしょう。勿論私も呼んでくれはるんでしょ?北海道に行くのは久しぶりやわぁ。」
「おかん、残念ながらこいつら金ないねん。とりあえず籍いれるだけや。」
「まぁ、こんなに綺麗な子に花嫁衣装を着せないなんて。あんた、ちゃんと面倒見てあげなさい。」
「わかったわかった。案配するわいな。」
「涼真さんも、退職金弾んであげなさい。これまで休日返上で会社に尽くして来はったんやから。」
「ええ、勿論……。」
引きつり笑いを顔に貼り付けている涼真をチラリと盗み見る。
涼真が唯一逆らえない人物が、幼少期から世話になっている駒子だ。これは明らかに保志の策略だった。ちょっかいを出す輩から守り無事結婚までこぎ着けるよう、上司として美葉を守る役目を仰せつかったことになる。これで涼真が結婚を妨害することは事実上出来なくなった。
美葉はほっと安堵の息を吐いた。
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