パピコ食べよう

 畦道で草払い機を操るアキの側に、佳音はそっと近付き声を掛けた。アキが振り返り、驚いた顔を向けてくる。


 「片っぽ食べてくれない?一人だと絶対二本食べちゃう。太ったら怒られるんだから。」

 佳音はそう言って薄茶色のパピコの片割れをアキに差し出した。


 「ありがとう、ございます……。」

 ぽかんとした表情で呟き、アキは戸惑いながら手を伸ばしてきた。その手にパピコを押しつけた佳音は、できるだけ口角を上げ軽い口調で言う。


 「敬語、やめない?アキの方がめっちゃ年上じゃん。年上に敬語使われたら、落ち着かないわ。」


 佳音は刈ったばかりの草の上に腰を下ろした。アキは戸惑いを露わにしたが、催促するように視線を向けると観念したように腰を下ろした。


 プラスチックの容器から、冷たいカフェオレの味が溶けてくる。八月の太陽に噴き出した汗がすっと冷えていくようだ。


 水田から鴨が飛び立つ。バタバタと大きく翼を動かしているが、丸い腹が重たそうに見える。自分と同じだと思うとおかしくて膨らんだ腹を撫でた。


 「私、アキを尊敬してる。凄いよね、一人で子供を産んで育てるって。」


 ほろ苦い甘みを味わいながら、呟く。アキは困惑した表情で佳音を見つめていた。佳音は握られたままのパピコに視線を向ける。


 「食べないと、溶けちゃうよ。」


 「あ……。」

 アキは戸惑うような声を漏らしてから、遠慮がちに口を付ける。暫くしてから、小さく美味しいと呟いた。その姿が子供っぽくて、佳音は自然に頬を緩ませる。


 「これ、美葉にしか言わないでおこうと思ってたことなんだけど。」

 佳音は出穂の始まった緑の稲に視線を向けながら言葉を紡ぐ。アキが小さく首を傾けた。


 「私、旦那の前に付き合ってた男に暴力振るわれてたの。性的な事も含めてね。アキがされた事に比べると大した事無いのかも知れないけど……。」

 

 佳音はアキに視線を向けた。アキは首を傾けたまま佳音を見つめている。


 「怖さとか、辛さとか、怒りとか、ちょっとだけだけど、分かる。と思う。」

 「佳音さん……。」

 

 佳音は、視線を稲に戻した。


 「健太と、幸せになれたら良いね。でも、もしかしたら辛いことを乗り越えなきゃいけないかも知れない。……とか、ちょっと心配だったりして。」


 パピコを囓り、口の中で溶かして味わう。


 「相談に、乗るから。私で、良かったら。」


 「佳音さん……。」


 アキが名を呼ぶのが、照れくさくて仕方がない。視線を避けつつも笑みを浮かべて、眼前に伸びる防風林を眺める。


 風が吹いた。その中に清涼感のある芳香を見付け、佳音は目を閉じる。


 「ミントの香りかな。ばあちゃん、どこかにミント植えてたっけ……。」

 「違います。」


 張り詰めた声を出し、アキが立ち上がった。


 「あの男がいつも付けてる制汗剤の匂い……。」


 アキがそう呟いたとき、ざっと草をこする音がした。その音と共に、頭上の道路から男が土手を降りてきた。男は地面に尻を突いたが、重たそうに身体を起こし両手で臀部の土を払った。アキが、悲鳴のような声を上げる。佳音は動くことも、声を上げることも出来ない。


 その男は、「濡田アキ」を探していた真田という男だった。


 白く垂れ下がった瞼の下から、ギラギラ光る視線をアキに向けている。

 アキは跳ねるように立ち上がり、佳音と真田の前に割り込むように立ち位置を変えた。


 逃げなければ。


 頭の中でそう思うのだが、身体が言うことを聞かない。立ち上がることすら出来なかった。


 「何を、しにきたの……。」

 アキが乾いた声でそう言い、真田を睨み付けた。真田は、口元を歪ませる。


 「何って、迎えに来たんだよ。勝手にいなくなっちゃうなんて、悪い子だ。」


 低くて粘ついた声だった。全身がぞっと震え、皮膚の表面が泡立つ。視界にあるのはアキの手だった。青白い手が固く握られて、小刻みに震えている。アキも怯えているのだ。何とかしなければ。頭に言葉をぶつけるが、真っ白な空間につぶてを投げるようなものだった。


 「私はもう女の子じゃない。小学生の子供がいるおばさんよ。もう、なんの魅力もないでしょう?」

 アキの声は震えていたが、毅然とした強さで真田に向かっていた。真田は不快そうに眉を寄せる。


 「そうだよ。本当に醜くなった。でもしかたないよ、これで我慢しないとね。もう新しい本物は駄目だってお母さんが言うんだよ。人形だったらいくらでもいいけど、本物を連れてきたら僕を殺して自分も死ぬって言うんだ。自分勝手な親だけどさ、お金を出して貰っているから仕方ない。言うこと聞かなくちゃ。」


 丸い肩を竦めて小首を傾げてから、アキに再び手を伸ばす。

 「だから、古いのを大切にしなくちゃ……。」

 「触らないで!」

 

 伸ばされた腕を避けるように身をかがめて足元の草払い機を手に取ると、腹に比べやけに細い下腿に打ち付けた。真田が悲鳴を上げて蹲る。アキは息で肩を揺らしながら、何かを探すように首を巡らせた。そして、身を翻し土手を駆け上がっていく。


 佳音は身動きが出来ないまま、頭上に消えるアキを見送る。真田は呻きながら身体を起こした。その顔は怒りに歪んでいる。

 「くそう……。」

 小さく呟いた後、真田は視線を佳音に落とした。その時やっと、佳音の存在に気付いたようだった。不快そうに片眉を上げて佳音に一歩近付く。


 「お前は……。この前嘘をついた子だ……。」

  悲鳴を上げたかった。しかし喉が張り付いて声が出ない。何とか足を動かして、僅かに身体を後方にずらす。それだけが唯一の抵抗だった。


 その時、耳を劈くような金属音が鳴り響いた。空気を震わせる音の源を振り仰ぐと、アキがいた。全身で、草払い機を振り上げて道路標識の支柱に打ち付けている。数回空気を震わせる音を鳴らした後で、アキは草払い機を抱えて土手を滑り降りる。真田と佳音の間に尻餅をつくような形で降りた後、立ち上がろうとした。しかし、その腹に真田の足が振り下ろされた。衝撃でアキは地面に横たわる。真田がアキに馬乗りになり、頬を殴打した。数度往復した後拳を広げ、両手で喉を押さえる。


 「ウグ……。」

 アキの喉から苦しげな呻きが漏れる。アキ。佳音は叫んだが、声にならなかった。


 

 

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