終章

終章-1

 熊蟬の鳴声を、鹿威しの音が断続的に切り裂いている。仏壇で、輝季があどけない笑顔を見せていた。こうやって何度、命日に線香をあげただろう。輝季の時は止まり、自分はどんどん年をとる。おじさんになったと笑っているかも知れないと想像し、口の端をあげる。


 無邪気な笑顔をもう一度みたい。


 何年経っても、切にそう願ってしまう。


 「ようお越し下さいましたね、涼真さん。」

 駒子は、座卓に麦茶の入ったグラスと、水菓子を置いた。

 「お気遣いいただきまして、ありがとうございます。」

 涼真は顔を上げ、座卓へと移動した。


 駒子は濃い灰色の夏大島に、小豆色の帯を締めていた。九月一日はまだ盛夏と言って良い。それなのに、夏着物である絽を仕舞い、初秋の着物を纏っているところが駒子らしい。


 客にはそう言う厳密さを強要せず、冷たい麦茶を出すところも。


 麦茶は心地よく喉を滑り落ちて行く。


 「先日、美葉さんと正人さんが茶室にお越し下さいました。色々とややこしくみっともない事をしたと、美葉さん恐縮してはりましたわ。」

 今日はその報告も兼ねてと思っていたが、駒子から話題にあげてくれてほっとする。普通は敢えて触れぬようにするだろうが、これも駒子の気遣いなのだろう。


 「涼真さんの前で言うのはなんですけども、あの二人はようお似合いですね。お互いが支えおうている感じがします。」

 「僕とおるより、ずっとお似合いでしょう?」

 「ええ。ほんまに。」

 あっさりと首肯してから、ほほほと軽やかに笑う。

 「あなたとおる時は、美葉さんは肩に力が入っていらっしゃいました。なんもかんも一人で背負うてやる言う気合いが在り在りと見えて、ちょっと心配しておりました。」


 駒子の言う通りなのだろうと思いつつ、こうまで有り体に言われては返答に困る。涼真は曖昧に笑って錦玉を竹楊枝で割る。錦玉は甘みを付けた寒天を固めた菓子だ。くりぬいた羊羮で出来た金魚や、色とりどりの練り切りで水泡を模した球が閉じ込められている。まるで澄んだ池をそのままくりぬいたようだ。


 「美葉さんが、あなたのお母様のようになるのではないかと、気をもんでいたんです。」

 駒子の言葉に、涼真は指を止めた。

 「……母、の?」

 駒子が首肯した気配を感じつつ、視線を二つに割れた錦玉に固定する。


 「あなたはようは思うておらんでしょうけど、あの方はあなたを救うために、私のところにあなたを託したのですよ。」


 カコン、と鹿威しが鳴る。思わず顔を上げると、細めた目に労りの色を滲ませた駒子がいた。


 「何とか生まれた子を間違いなく跡継ぎに育てるために、あなたの養育はお父様が選んだ乳母に任せることになりました。母親に甘えすぎてはならんと。古いお考えであったと思います。亡くなった方を悪く言うのは良いことではありませんが。」


 自分が当時まだ珍しかった人工授精で生まれたことは聞いていた。父は無精子症だったと思われる。何人の女を相手にしても子供を授かることは出来なかった。自分の半身を成したのは父の末の弟のものだと推測する。父とは親子の情を交わした記憶が無いが、彼は折りに付け優しく接してくれていた。


 母を求めていたという記憶も定かではない。母の関心は学校の成績や周囲の評価だけだと感じていた。


 「あなたが家政婦さんに手を引かれて家に来たとき、人の形をしたロボットかと思いましたよ。」

 記憶に微かに残るのは、紅葉で染まった庭園の先で、頭を下げる和服の女性。何の関心も湧かなかった。


 「このままでは、心のない人になってしまう。でも、この子を守る為に戦う気力はもう自分にはない。どうかこの子に豊かな経験をさせて下さいと、あなたのお母様が私に頭を下げはったのです。」

 混乱する頭で駒子を見つめると、その口の端に悪戯をするような笑みを浮かべる。

 「そこで、ウチのやんちゃ坊主を嗾けたんですわ。あんた、あの上品なお子を町一番の悪戯坊主にしてみなさいと。保志はそれはもう面白がって。仰山あんたに悪さを教えましたやろ。」

 ほほほと高らかに笑う。小刻みに動く喉仏を、呆気にとられて見つめる。


 この親子は、よく似ている。

 よく似ていて、質が悪い。


 「あなたの瞳に豊かな光が戻り、安心していました。それやのに、輝季の事で、辛い思いをさせてしまいましたね。本当に、申し訳ありません。」

 一変して居住まいを正し、駒子は頭を下げた。


 輝季の事で駒子が頭を下げたのは、初めてのことだった。勿論駒子が謝る筋合いなどない。駒子は加害者ではない。加害者は輝季を虐めた同級生であり、いじめを放置した教師であり、輝季を守らなかった父親だ。


 いや、違う。

 自分もまた、加害者だ。


 差し伸べてきた手を払い、過酷な世界に背を押した。

 謝るべきは、自分の方だ。


 「……僕が、京都に帰さんかったら良かったんです。僕が……。僕が最後の砦やったんです。それやのに、守ってやらんかったんです。」

 膝の上で拳を握りしめる。初めて、自分の罪を吐露した。


 「輝季を邪魔やと、思ってしまいました。早く輝季が京都に帰ってくれたらええ、早く自由な夏休みを満喫したいと思ってしまったんです。泣きじゃくる輝季の背中を……。」

 右手を開き、手の平を見つめる。

 「背中を、この手で、押したんです。自分の欲求を、叶えるために……。」


 手の平が、歪んでいく。喉が焼けるように痛み、息苦しさにあえぐように肩で呼吸をする。微かに震えている手を、駒子が両手で握った。皺だらけの小さな手は、冷たかった。

 

 「あなたは、普通のことをしただけです。夏休みが終わる子供を、親元に帰しただけやないですか。何一つ、負い目を感じる必要は、ありません。」

 「いいえっ!僕が殺しました、僕が殺したんです!僕が背中を押したんです!死ぬしか選択肢がなかった世界に!」


 座卓の上に、ボタボタと滴が落ちる。あああ、と小さな悲鳴のような声が、自分の喉から漏れていく。


 額が、柔らかいものに触れた。身を乗り出した駒子が涼真の身体を抱き寄せ、皺だらけの手が後頭部を撫でる。


 「選択肢が、無かったわけでは無いのです。私らが、ちゃんと見付けてやらんかったのです。何があっても、どんなに追い詰められても、生きてさえいれば道は開ける。……見えなくなっていた目を開き、手を引き、安全な場所で守ってやることが、なんでできんかったやろうと、今でも悔いが残ります。」


 髪を撫でる手が震える。駒子の声も震え、微かに鼻を啜る音が聞こえた。


 「あなたが何時までも輝季の事で負い目を持つ必要は無いのですよ。あなたのその優しさを、真っ直ぐに周りに注いで生きなさい。それが輝季の弔いとなります。」

 「……優しくなど。僕は、優しくなど……。」


 優しくなど、無い。どこまでも独善的で、冷たい人間だ。

 

 「いいえ。」

 駒子の声に、力が戻る。

 「あなたは、優しい人ですよ。その証拠に、真っ直ぐに愛を貫きました。」


 鹿威しが鳴る。風が吹き、熊蟬の鳴声がいっそう強く部屋を満たす。


 「自分の幸せよりも、愛する人の幸せを選びました。……あなたは、愛を貫きました。ご立派です。」


 涼真は熱を持った息を吐き出した。


 あの日、美葉は足を止めた。留まろうかと迷った美葉を、虹に向かって送り出したことは、後悔していない。


 彼女には、広い空が似合うのだから。

 

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