終章-2
正人が足早に工房へ向かう。程なくしてガシャンとけたたましい音がした。多分道具箱をひっくり返したのだろう。あわわと声にならない声が聞こえてくるが、片付けるほどの間を置かず戻ってくる。
美葉と健太、アキ、陽汰の横をすり抜け、キッズルームへ向かう。しかし、回遊魚のごとく正人は戻ってきて再び工房へ消えた。
座るように促すのは疾うに諦めていた。皆一様に顔をしかめるしか手だてがない。美葉は立ち上がり、ミルに珈琲豆をぶち込むと、ガリガリといつも以上に大きな音を立てて豆を挽き始める。
かなり前から耳栓で音を遮断している陽汰は涼しい顔をしているが、健太は思わず耳を塞いだ。今珈琲を淹れたところで、誰も飲みやしない。イライラを豆にぶつける作戦は既に何度も実践され、お陰で腹がタポタポである。
陣痛が始まったと聞き、皆で佳音の部屋に集合した。しかし、正人が部屋をぐるぐる歩き回るので、階下の当事者達が落ち着かないと直美に追い出されたのであった。
一旦陽汰の家に行ったが、正人の足音がうるさいと数分で桃花と千紗から追い出されてしまった。
仕方なく、樹々へ待機場所を移したのだが、正人の徘徊は止まらない。その頃から美葉のイライラが募り始めた。
「この二人、喧嘩したら案外やっかいかもな。」
思わず呟くと、何を今更という顔を陽汰がこちらに向けた。
青筋を額に浮かべつつも、笑顔を貼り付けて美葉が戻ってくる。コーヒーポットから、マグカップに容赦なく珈琲が注がれていく。思わずゲップが出そうだ。
「そう言えばさ、冬になったら車の免許取りに行こうと思ってるんだけど、アキも一緒にどう?」
マグカップをアキの前に置きながら、美葉が気さくに問いかける。美葉は極力アキと仲良くしようと努力しているようだが、アキの方がまだ緊張してしまうようだ。
「そうだな。ここらは車がないと生活できないからな。どうせ取るなら、冬に教習所通った方がいい。冬道に慣れるって、大事なことだからな。」
「で、でも……。免許取るのってお金が……。」
「そんなの、俺が出してやる。」
健太が胸をバンと叩く。
「未来の嫁さんの免許や車くらい、俺が何とかするベ。」
「かあっこいい!」
美葉が背中をバンと叩いた。いや、ちっとは手加減しろよと言いたい。
「健太も結婚かぁ。良かったね、いい人見つかって。」
改めて言われると、照れくさい。
「母さんが反対してっからもうちょっと時間が掛かるかもしんないけど、いずれ離れを壊して家を建てる。そん時は樹々で家具を揃えるから、頼むぜ。」
「勿論よ。新居の設計からトータルでお世話しますって。」
美葉はまた、背中を容赦なく叩いた。
スマートフォンが着信音を鳴らした。美葉が出ると、正人がドドドと足音を立てて走り寄ってきた。美葉の頬が上気して瞳が大きく見開かれる。うん、うんと何度か頷いてから電話を切り、大きく両手を天井に突き上げた。
「産まれたよ!元気な男の子!」
「おとっ!男!」
正人が変な声を上げたかと思うと、わーっと泣き出した。
「美葉、お前が子供産む時、大変だろうな。」
美葉は大真面目な顔で頷いた。
「私、立ち会い出産だけはしないわ……。」
工房の外に出ると、美葉は空を見上げて小さく声を上げた。その声に視線を移すと、大雪山脈が淡く茜に染まっていた。瑠璃色の空に、羊雲が青藍色の水玉模様を描いている。
「ブルーアワーだ。」
思わず呟く。夜でも無く、朝でも無い。その僅かな時間、空は濃い青に染まる。
「忘れられない空になるね。」
美葉の呟きにみんなが頷いた。
茜色に背を向けて、ぞろぞろと歩を進めていく。
「出産って、時間が掛かるんだね。アキは、どれくらいかかったの?」
「6時間くらいだったかな……。」
アキの言葉に、美葉の顔が少し青ざめた。
「い、痛い?」
「ええ、まあ……。」
「鼻かららいでんスイカ出すくらい?」
「は、鼻かららいでん……?」
空が少しずつ明るくなり、地面に淡く仲間達の影が現われ、わさわさと揺れている。
***
佳音は居間に敷いた布団に横になっていた。その横のベビー布団に小さな命が眠っている。
「来た来た!三番目!」
佳音の横で、佳音の姉の瑠璃が手招きしている。はじかれたように駆け出した美葉は、佳音の横にぺたりと座り込んだ。疲れを宿しつつも誇らしげな笑みを浮かべる顔をのぞき込む。母になったばかりの顔なのだと思うと、胸が熱くなった。
「佳音。お疲れ様。大変だった?」
美葉の言葉に、佳音はクシャリと笑った。
「超痛かった。マジで痛かった。」
「嫌、ほんと、腰が抜けた。」
ヘロヘロとした足取りで錬が居間に顔を出す。
「もう、大丈夫?お父さん!」
大役を果たした本人よりも疲れた表情をしているから、自然と声が厳しくなった。錬はひょいと敬礼をする。
「さ、後が閊えてますよ。」
直美が手をアルコールで消毒し、美葉の手にも透明なスプレーを吹きかける。美葉はそれを丁寧にこすりあわせてから、しゃんと背を伸ばした。
「首をちゃんと支えてあげてね。」
直美から、赤子を手渡される。危うさの残る手つきで美葉はその子を抱き、顔をのぞき込んだ。糸のように細く瞼が閉じられている。あどけない口元に、節子の面影を見付けた。
「名前はね、大地。」
誇らしげな顔で、佳音が言う。
「この世で一番力強いもの。」
「大地。良い名前付けて貰ったねー。」
美葉は小さな顔に語りかける。顔の傍で握られている拳に思わず頬が緩んだ。
朝陽が窓から差し込んできた。大地の頬がうす茜に染まる。小さな命を迎えた皆の頬も、正人の涙と鼻水も、同じ色に染まっていた。
了
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