悩み事を聞いて下さい-1

 錬とはそれきり口をきかなかった。錬が仲直りの糸口を探そうとすればするほど、意地を張ってしまう。錬に背中を向けて布団を被ったが、一向に眠気は訪れず、いつの間にか夜が明けた。早番の錬は目覚まし時計を素早く止めて身体を起こした。


 「ごめんな、佳音。」

 錬が頭を撫でた。


 寝たふりの頬に涙が伝う。


 錬の身支度の衣擦れが聞こえ、玄関ドアが閉まる音がして、車のエンジン音が遠ざかると身体を起こして涙を拭いた。


***


 休日だったが、家にいてもろくな事は考えないので当別に向かった。実家に帰ると母はもう仕事に出かけていた。この時期はアスパラガスの収穫があるので、朝が早いのだ。


 家には入らず、一本道を歩き始めた。


 六月の風は柔らかく、真新しい朝の日差しは少し眩しかった。道の端にタンポポが咲き乱れ、佳音が歩を進める度にその茂みから小さな蝶の群れが飛び立った。ヒバリやウグイスの鳴き声が曇天に重なっていく。


 お腹の中がぐるりと揺れた。胎児も気持ちよいようだ。


 この真っ直ぐ続く道に、四人の家が並んでいる。錬の家だけ一筋離れた所にある。小学生だった頃は毎日この道を自転車で走った。誰かの家に行ったり、学校裏の神社に集まったり。何の心配も無く、毎日毎日遊び回っていた。


 小学生の頃だけじゃ無いな。


 佳音はクスリと笑った。


 中学生になっても、高校生になっても、自転車が大きくなっただけで同じメンツでこの道を走った。


 今は皆、ばらばらだ。


 自分も、錬も、健太ももっぱら車で移動するようになった。陽汰も最近、教習所に通い始めたらしい。美葉は、京都の人になった。


 皆、大人になってしまった。


 でも、中身は高校生の頃とそれほど変わらないように思う。


 自分だけかも知れないけれど。


 ぐるん、と胎児が動いた。

 それなのに、親になるんだ、もうすぐ。


 「大丈夫なのかな。ちゃんとお母さんになれるのかな。」

空を見上げると、重たい雲の隙間に所々青空が覗いていた。


 口に出したら、急に不安になってきた。ヒバリの鳴声が空に昇っていく。この世界にある音は、ヒバリの声と自分の足音だけ。そんな気がして心細い。


 気が付いたら、樹々の前だった。そう言えばあの日以来来ていない。親友を振った正人を憎たらしいと思う気持ちはあるが、正人もまた、自分にとっては大切な親友だ。美葉と別れてどうしているのか気になる。


 ショールームのドアは当然ながら鍵が掛かっていた。しかし、微かに珈琲の香りがする。正人は中にいるようだ。勝手口のドアは予想通り開いていたが、正人の姿は無かった。工房がとても綺麗に片付いている。佳音は少し唇をとがらせ、首を傾げてからショールームに続いているドアを開けた。


 正人はキッチンに立ち、真剣な表情でドーム型に膨らんだ珈琲豆に湯を細く注いでいた。集中しているようだったので、佳音は正人が腰を上げるのを待ってから名を呼んだ。


 正人は顔を上げると、驚いた顔をしてから破顔した。

 「お久しぶりですね!佳音さん!」


 キッチンには目玉焼きとトーストが並んでいた。正人は、あ、と声を上げた。


 「佳音さんも、一緒に朝食食べませんか?」

 そう言われて、佳音は昨夜からまともに食べていないことに気付いた。


 

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