パン屋の女将になるんじゃないの
久しぶりに定食屋に来たが食欲が湧かず、さっきから無駄にオムライスを突いている。
錬には、休暇を勧められたことも最近フラッシュバックが起こることも、相談できないでいた。錬は残業をしなくなり、出来るだけ家にいて家事を手伝ってくれる。善意でやってくれていることなのに、自分が役に立たない人間だと言われているような気がして、つい洗濯物の畳み方が違うとか、味付けが濃いとか文句を言ってしまう。
その度に、自己嫌悪が募る。
錬が、ザンギをオムライスの横に置いた。え、と顔を上げるとニコニコ屈託の無い笑顔を向けている。
「お腹の赤ちゃんの分。しっかり食べなよ、赤ちゃんお腹空いてるぞ。」
「……太っちゃうよ。揚げ物の油は身体に良くないし。」
また、素直では無い言葉を返してしまった。
錬が珍しく溜息をついた。
「最近、佳音変だぞ。身体、辛いのかい?」
優しい言葉に、涙腺が緩んでしまう。しかし、佳音は無言で首を横に振った。うーん、と錬が唸る。
「佳音の笑った顔、ここしばらく見てないんだ。」
錬の手が、頭にぽんと乗った。
「子供が産まれるって幸せなことのはずなのに、なんで佳音は辛そうなんだろう?俺に出来ること、無いのかな。最近そればっか考えてる。新作のパンのことも、この一月考えてない。」
「新作のパンと私、並べて考えないでよ。」
思わず突っ込みを入れる。しかし、確かにパンのことしか考えてないパンオタクが新作のアイデアを考えないというのは由々しきことかも知れない。
それだけ、心配掛けているんだ。申し訳ないな。
ずん、と胸が重くなる。
仕事をしていても、家にいても、皆に迷惑を掛けている。
「……なぁ、佳音。怒らないで聞いて欲しいんだけどさ。」
頼りない錬の声に、思わず顔を上げた。錬は眉をハの字に下げて困ったような顔をした。
「一回、仕事辞めたらどうだろう。」
錬が吐き出した言葉に、佳音は小さく口を開けた。
「何で……。」
やっと、その言葉を押し出す。
「何でってさ、辛そうだからじゃん。仕事から帰ってきた佳音は凄く疲れてて、辛そうなんだよ。身体もそうだけど、気持ちも落ち込んでいそうで。そんな佳音、見てらんない。」
佳音は、唇を噛んだ。話していないのに、錬には見透かされている。身体よりも今は、心が辛い。
「どうせいつか、パン屋の女将になるんだしさ。今そこまで看護師の仕事、頑張らなくても良いんじゃ無い?」
「は?」
錬の言葉に、目を剥いて問いかけた。
「今、なんて言ったの?」
「へ?」
錬は間抜けなほど驚いた顔をする。
「嫌、いずれ店出したらさ、佳音は看護師を辞めてパン屋の女将になるだろう?だったら妊娠中の身体にむち打ってまで、仕事しなくても良いのにって思うんだけど。」
佳音は両手でテーブルを叩いた。店中に大きな音が響きわたり、厨房の店主がこちらを振り返った。
「私が何時、パン屋の女将になるって言った!?」
大声で錬に言葉を叩き付けた。怒りで頬が熱くなり、息が上がる。錬はオロオロと視線を彷徨わせている。
「だ、だってさ、常識だべ?パン屋を開業したら、嫁さんが売り子を手伝うってのは。」
「どこの国の常識よ。私は聞いたことが無いわ。」
「でもさ、職人と売り子の両立はちょっと無理があるしさ。いきなりバイト雇うのもリスク高いしさ。」
「知らないわよそんなの。錬は私がどうせ辞めるんだと思いながら看護師をしていると思っていたの?そんなにいい加減に見える?私の仕事への姿勢。」
「いや、見えないよ。勿論見えない。佳音は凄く真面目に看護師という仕事に向き合っていると思うよ。」
錬は慌てて両手を振った。それから、シュンと頭を下げる。
「……ごめん。佳音が全面的に開業に協力してくれると思ってた。」
俯く錬を唇を噛んで見つめる。
「私……。看護師という仕事に誇りを持っているし、自立した人間になりたいと思ってる。錬は、どうせそんなの無理だって思ってるんでしょ。私には無理だって。」
思いがけず、涙が溢れてきた。ぽろぽろ流れる涙を両手で隠す。
「そんなこと無いよ。」
オロオロと震える錬の声を、首を横に振って撥ね付けた。
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