遺書

 「正人へ


 この子は、猛といいます。名前のとおり、つよくてやさしい男の子。

 一人でうんで、一人でそだててきました。

 一生けんめいやってきたけれど、もうむりです。

 おねがいです、この子をたすけて下さい。

 わたしがいるとこの子がだめになるとおもうからわたしはきえます。

 かってなことばかりで、ほんとうにごめんなさい。」


 コンクリートか何かの上で書いたのだろうか、文字はガタガタ揺れていた。小学生が書くような、下手くそな文字だった。一方的で、身勝手で、読んでいて腹が立つ。しかし、この手紙はあまりにもおかしい。


 この文章によると、正人は猛の名前も、性別も知らなかった。つまり、出産時には二人は別れていたということになる。


 健太が見たのは、妊婦を描いた絵。妊婦と分かるくらいのお腹だから、少なくとも六ヶ月以降。そして、離婚理由はアキの浮気。


 アキが浮気したのは、妊娠六ヶ月以降ということになる。浮気相手と一緒に逃げるように旭川から江別に移り住んだ。しかし、男とは別れて一人で子供を産んだ。浮気相手は出産間近の女との別れ話を飲んだと言うことか。妊婦と浮気をして、夫の元から連れ去ったのに?しかもこんなに頼りない女を?


 納得がいかないことばかりだ。


 実家の居間で、もう随分長い時間その紙片を眺めていた。


 「佳音ちゃん、いるの?」

 玄関口で、女性の声がした。


 「はい、います。すぐ行きますね。」


 声に聞き覚えがあった。明るいトーンの元気な声。

 「いい、いい。私がそっちに行く!上がらせて貰うねー。」

 そう言って、パタパタと足音を立ててやってくる。小柄な、ぱっちりとした瞳の中年女性。


 「直美さん!」

 佳音が名前を呼ぶと、直美はぱっと大きな二重の瞳を輝かせた。


 「久しぶりね。妊婦さんになったって聞いたから、様子をうかがいたかったんだけど、なかなか会えなくて。庭に車があったから、飛んで来たわよ。」


 陽汰の母親の直美は、五十代には見えないほど若々しくて綺麗だ。悠人と陽汰と同じ、綺麗な二重の瞳がチャームポイント。


 「私も会いたかった。直美さんに、色々教わらないとって思ってたの。」


 直美は、あいの里の助産院で助産師として働いている。いわば妊娠出産のプロなのだ。折角お隣にいるのだから話を聞きたいと思っていた。しかし、直美は助産院での仕事が忙しく、あまり自宅に帰ることが無いのだ。直美の顔を見るのは、何年ぶりだろうかと思う。直美は前に会った時と変わらないように見えるが、その顔には疲労の陰があった。


 「直美さん、お仕事の帰り?もしかして、夜勤明け?」

 「夜勤も何も、こちとら24時間体制ですから。……今日はね、自宅出産のお手伝いを終えた帰りなの。ほら、悠人の同級生の一哉君。あの子のお嫁さんの第一子。元気な男の子だったわー。近所だから直帰して、明日までお休みなの。」


 五つ上の悠人の同級生にはピンと来ないものの、自宅出産というキーワードに心が動いた。


 「自宅出産って、家で産んだって事?」

 「そうそう。」

 直美はくりくりとした瞳を見開いてうんうんと頷いた。


 「うちを利用する妊婦さんはねー、自宅出産を選ぶ人が多いのよ。自宅出産に立ち会うのは大体私。亀の甲より年の功!ってね。良いわよー、自宅出産。家族皆で新しい家族を迎える感覚。」


 家族皆で新しい家族を迎える感覚。

 ふと、佳音の脳裏に亡き祖母の顔が浮ぶ。


 徹夜明けの直美はいつもに増してテンションが高く、話を続けた。


 「節子ばあちゃんのお姉さんくらいの時代はねー、皆自宅出産だったのよ。コミィニティーの中に赤ちゃんを取り上げるのが上手な女性が必ずいてね、お産だーって事になるとすぐに駆けつけるの。その技は、女性から女性へ、代々受け継がれていくものだったのよ。」


 「へぇ……。」

 昔話の世界だと思っていたけれど、意外と最近までそんなシステムの中で子供を産んでいたのかと驚く。


 「命あるものは自力で子供を産むのが当たり前。人間だけよ、病院の中でプロの手によって出産をするのは。出産台に乗せられて、不自然な体勢でね。普通にお産をするなら、あんな態勢にはならないわよ。自宅出産なら、好きな場所で好きな態勢で産むことが出来るの。これが本来の人間の姿だよなーって、毎回感動するのよねー。」


 瞳を輝かせる直美を、佳音はやや呆気にとられて見つめる。

 

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