悪夢

 アスファルトに長く伸びるお母さんの影が、小さく揺れている。


 油蝉のけたたましい鳴き声が空気を満たしている。背後に焼け付くような斜陽があり、空は血を流したように真っ赤に染まっていた。お母さんの歩は遅く、長く伸びる影に引き摺られているようだった。


 『カッとなると手が付けられなくなるところは、お父さんそっくり……。』

 悲しげな呟き声は、蝉の鳴声にかき消されそうなほど小さかった。


 あれは確か、小学校五年生の時だった。


 参観日に、夏休みの自由研究を発表することになった。その代表者に選ばれたのだ。当時のお母さんはベッドから起き上がることが出来ないほど調子が悪かった。それでも、何とか学校にやって来てくれた。


 お気に入りの白いワンピースを着ていた。そのワンピースを着たお母さんは、絵本に出てくる妖精のように綺麗なはずだった。けれど、痩せた身体に元気だった頃の服は異様なほど大きかった。栄養不足で白くこけた頬に目の周りを縁取るような隈、艶を失った長い髪を無造作にたらして悄然と立つその姿は、クラスメートの目に亡霊のように映ったらしい。


 正人はクラスメートの奇異なものを見る視線には気付かず、壇上に立って懸命に研究発表を読み上げた。


 『人間の指は何故それぞれが独立して動くのかについて研究しました。人間の手は身体の他の部分に比べてとても沢山の筋肉があります。筋肉と骨は腱で繋がれています。その腱は他の指と横方向にも繋がっていて――。』


 父親の書斎には物理学と人体に関する本が沢山あって、その本を読むのが好きだった。父は身体拡張システムの研究をしていた。物理工学の分野を人体に応用したような研究らしい。自由研究の題材は「興味があるもの」で良かった。当時、猫や犬の手と違って人間の手がこんなにも自由に動くのは何故だろうと不思議に思っていた。だから、夏休み中ずっと手の事を掘り下げて学んだ。


 その結果、興味や関心があちこちに散らばってしまい研究というよりは手についての知識の羅列でとてもまとまりのないものになった。それなのに、先生はとても褒めてくれて、授業参観で発表するように指名してくれた。


 先生が褒めてくれることなど、滅多に無い。学校の成績は良かったけれど、授業中ぼーっとしていたり違うことに熱中してしまったり忘れ物が多かったりと生活態度は散々で、叱られるというよりも呆れられていた。


 だから、小学生になって初めての誇れる姿をお母さんに見て欲しかった。でも、来て欲しいとは言えなかった。授業参観のプリントをテーブルの上に置いておくのが精一杯のアピールだった。


 お母さんはその気持ちに気付いてくれて、息も絶え絶えに学校に来てくれた。とても嬉しかった。


 その翌日、同級生に言われた。


 『お前のお母さん、幽霊みたいだよな。』


 その言葉を聞いた途端頭に血が昇り、同級生に馬乗りになって力任せに殴り続けた。


 校長室に呼び出され、お母さんは相手の親や教師達に叱責された。その帰り道のことだ。


 父親のことは、よく覚えていない。けれど、断片的に見聞きする父親と自分はそっくりだ。


 病気の母を放り出すようにアメリカに行ったきり、帰ってこない。そんな冷酷で無責任な所も。


 自分のために作られたオーダーメイドの椅子に座り、一人で怯えるアキの姿が見える。あの時、アキの存在に目を瞑り仕事に託けて家に帰ろうとしなかった。父がお母さんにした仕打ちと、全く同じだ。


 ――暗闇で、ベッドに横たわるお母さんが目を開ける。孤独と悲しみに心を潰され、その苦しみから逃れるために起き上がる。息子にすら、約束を破られたその朝、黒い紐を手に外に出る。納屋から小さな脚立を取り出して松の木の下に置く。脚立の一番上に登り、松の枝に紐を括り付ける。紐の隙間に頭を入れて、脚立を蹴る。瞬時に息の根が止まり、だらりと俯くその顔は――。


 お母さんじゃ無い。


 その人は、最愛の人だ。


 「美葉さん!!」


 自分の叫び声で目を覚ます。


 まだ世界は夜の闇が支配している。はち切れそうな鼓動に胸を押さえた。


 正人の頬を、涙が一筋流れ落ちる。


 ――自分は、愛する人を不幸にする。


 正人の喉から、悲鳴のような嗚咽が漏れる。美葉の笑顔が、美葉の声が、美葉の体温が鮮烈に蘇る。そこに手を伸ばすことはもう出来ない。身体から肉を引きちぎるような痛みが全身を襲う。


 暗闇の中で、正人は痛みに悶え叫び続けた。

 

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