木寿屋の美葉、当別へ-2

「私は、家で料理をしたいとはもう、思ってません。」

 震える声でそう言って、朱音はゆっくりと夫の方を見た。


 「私も、この人と一緒に店のまかないを食べたいと思います。」


 達義の顔に血の気が戻り、柔らかく綻んでいく。朱音が願い事を唱えるように、夫に向かって言った。


 「もう、家にじっとしているのは飽きました。随分ブランクが空いてしまったけれど、もう一度店に立ちたい。あなたと一緒に。」


 話の展開に正人は驚いてオロオロしている。美葉は心から安堵し、不器用に視線を合わせる二人を見つめた。


 達義の真意を悟った時、達義が期待しているのはどちらなのだろうかと不安を感じていた。


 家庭内別居と言うべき関係を清算し、離婚という決別を願っているのか。それとも、再び自分と共に生きる未来を選んで欲しいのか。


 ただ、どちらにしても朱音が選んだ選択を無条件に飲むというのは身勝手では無いかと思う。朱音が未来を選ぶように、達義も自分の未来を選ぶべきだ。そしてお互いの気持ちを伝え合い、納得し合うべきだ。


 出来ればそれが、共に歩む未来であって欲しいと思った。そして、二人で同じ未来像を見つめて欲しい。


 今、二人はその入り口に立ったところだ。


 達義は、朱音に微笑みを向けた。

 「……じゃあ、パティシエとして、復活してもらえるんやね。」

 朱音は照れくさそうに頷いた。


 二人を見つめがら、正人はポリポリと頬を掻く。


 「あの……。では、キッチンのリフォームは今はお考えにならない方がいいのかも知れませんね。」


 え、と二人は驚いて正人を見た。正人は頬を掻き続ける。


 「お二人がこれからどのような生活をされるのか、今お決まりになった所ですよね?そこには、家で料理をする時間はあまりないようです。故障して不便だというなら、話は別なのですけど。実際に新しい生活をしてみてから、落ち着いてその先の未来を二人で描き、そこに樹々のキッチンが必要であれば、またご用命いただければと……。」


 あーあ、と美葉は心の中で額に手を当てる。

 北海道まで来た客を、自分からお断りするんかい。


 そして、つい笑ってしまう。


 でも、自分でも多分そう伝える。今この二人にとってリフォームはまだ早い。やっと視線を合わせたところなのだから。二人で未来を描けるようになるには、まだ少し時間がかかるだろう。


 「お家のリフォームも、同じかも知れませんね。お二人で時間を掛けて将来像を描いてからで遅くは無いと思います。まだ綺麗なお家ですから、十年後でも充分です。」

 「でも……。」


 二人はそれぞれ戸惑いの表情を浮かべている。

 「折角お時間を割いていただいて、しかも北海道まで来ていただいたのに……。」

 申し訳なさそうな視線を投げる朱音に、美葉は首を横に振って見せた。


 「大丈夫です。木寿屋は創立160年の老舗です。お二人がリフォームをお決めになったときにも、立派に商売をやっておりますので、その時またご利用下されば。」

 にっこりと微笑む。


 ――その時、自分はどこにいるのだろうか。


 美葉の胸に不安が風のように吹き抜けた。

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