木寿屋の美葉、当別へ-1

 それから一週間後、美葉は近藤夫妻と共に当別に向かっていた。キッチンの打ち合わせに同席して欲しいと頼まれたからだ。見奈美は今回は留守番となった。流石に、北海道への出張費を二人分出すのは佐緒里が許さなかったのだ。


 美葉は木寿屋の制服を着ていた。木寿屋の制服は紺色のブレザーと膝下のタイトスカートというオーソドックスなもの。首元に小豆地に細い黄檗のストライプが入ったスカーフをサイドに結んでいる。それがキャビンアテンダントに見えたようで、伊丹空港で広東語の集団に囲まれた。551の肉まんを買うにはどこへ行けば良いのか聞きたいようだ。何とか英語で土産物売り場を教えたが、キャビンアテンダントだからといって闇雲に声を掛けるべきではないだろうと思う。


 木寿屋の制服を着て来たのには訳がある。正人の顔を見ても動揺せず木寿屋のデザイナー谷口美葉を貫くためだ。少なくとも、仕事中は。


 だが、正人は美葉の顔を見てあからさまに動揺した。


美葉は胸ポケットから名刺入れを取り出し、ビジネスライクな表情を整えて正人の前に立った。


 「初めまして。木寿屋でスペースデザイナーをしております、谷口美葉と申します。」

 「あ、え、あ……。」


 正人は震える手で名刺を受け取り、慌てた様子で雲のテーブルの上から名刺を取り、美葉に差し出した。


 「あ、あの、か、家具工房樹々のオ、オーナーのき、木全正人です。」

 しどろもどろに差し出した名刺を美葉は丁寧に受け取り、頭を下げた。


 「この度は、お世話になります。」

 「は、はい。」


 これは、プライベートは脇に置いてしっかり仕事をしろという美葉からのメッセージだった。顔を上げて正人を見ると、形の良い唇を固く引き締めていた。どうやらメッセージは正人にしっかりと伝わったようだ。不自然なほど背筋をただし、ロボットのように近藤夫妻の方に身体の向きを変えた。二人は、二人掛けのソファーに座っている。正人と美葉は、向かい合う一人掛けのソファーにそれぞれ座った。


 「では、お二人のご希望をお伺いします。主にお料理をされるのは、どちらになりますか?」


額にうっすらと汗を滲ませながら、正人が近藤夫婦に問う。


 達義は朱音あかねに視線を投げた。朱音は相変わらず視線を誰とも会わそうとせず、床を見ている。だが、美葉は朱音に変化を感じていた。初対面の時の人形のような朱音ではない。ここにいるのは、自分に充分向き合った後、夫にその言葉を伝えようという決意を持っている女性だ。


 正人は、視線を二人に交互に送り、穏やかに答えを待っていた。美葉は祈るような気持ちで、朱音を見つめる。

 

 「料理を作るのは、私になるでしょうね。でも、現状のままやったら料理は殆どせんと思います。自分一人のために料理を作るのは、あまり楽しいものではありません。」


 正人は朱音を見つめて頷いた。


 「確かに、そうかもしれませんね。誰かに美味しいと喜んでもらえるなら、作りがいがありますけど。」


 何度か頷いて、達義の方を見た。


 「ご主人は、一緒にお食事はされないのですか?」


 達義は苦笑する。


 「ええ。レストランを経営していますから。まかないで済ますことが多いですね。」

 「お休みの日も?」

 「休みは、あってないようなものです。支店や取引先を回ったり、新メニューの開発をしたり。正直、家に帰る時間があまりないのです。」

 「そうですか……。お忙しいのですね。」


 正人は、ため息をつく。美葉は、固唾をのんで話の展開を見守る。もう既に、手詰まりのような気がするが。


 正人は朱音を見つめて、さらりとこう言った。


 「でも、奥さんは旦那さんに手料理を食べて貰いたいと思っているのでしょう?」


 はっと朱音は息をつき、顔を上げた。達義がその横顔を見つめる。願うような期待と、重たい不安が交差しているように見えた。


 朱音の唇が震える。


 「……いいえ。」


 その声も震えている。達義の表情がにわかに硬くなり、妻を見つめる視線が光を失う。

 

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