彼女の真意-3

 「もう、仕事は辞めました。」


 朱音はぽつりとそう言って、顔を窓の方に向けた。窓から差し込む柔らかい光に照らされて、朱音の首筋に薄い影が出来ている。その先に踏み込むべきかと逡巡するが、進まなければ成果は得られないと決意を固める。同時に、これは朱音への誠意だと心に確認をする。好奇心でもなければ、利益を得るための手段でもない。朱音の心を知るために、誠意を持って相対する。


 「いつ、辞められたのですか?」

 美葉の問いに、朱音は顔を動かさずただ瞼を少しだけ閉じた。


 「……8年前。」


 ぽつり、とその言葉だけが小さく開いた唇から溢れた。哀愁を帯びた響きが、核心に近付いていることを告げる。朱音という人物の、一番大切なものが「8年前」という一言に隠れているのは間違いない。だがそこは、とてもデリケートな場所であることも察した。


 「理由を、伺ってもいいですか?」


 言葉にありったけの心を込めて、そう問いかける。朱音の顔は不動だったが、表情がすっと氷のように冷えた。


 明け放れた窓から風が吹き込み、レースのカーテンを大きく揺らした。五月の風は心地よくリビングの空気をかき回して去って行く。


 「……子供が欲しかったんです。」


 揺れるカーテンを瞳に映して、朱音は呟いた。


 「不妊治療は続けていました。そやけど、成果はでないままタイムリミットが近付いてくる。一編仕事を辞めて妊娠することに全てを掛けようと思ったんです。妊活って奴ですわ。」


 淡々と呟くように吐き出される言葉に、美葉は「そうですか。」と丁寧に答えた。


 「でも、妊活に集中したことで却って気持ちが追い詰められてしまった気がします。なりふり構わず、妊娠するのにええと言うことを試して、お金も掛けて……。体外受精をして、妊娠が判明しても流産してしまう。そういうことが続いて気持ちもすさんでいきました。……そんな女がそばにおったらうっとうしいんやろうね。夫は、私が妊活にのめり込むほどに仕事に熱中するようになりました。支店を出してからは、家に帰るのが遅くなり、妊活はうやむやのまま去年五十を迎えました。」


 並んで座る二人の間には、人一人分の隙間があった。それは二人の心の距離なのだろう。美葉は締め付けられるように胸が痛くなり、そっと息を吐いた。朱音は美葉の表情を見てはっと我に返ったようだった。偽物のような笑顔を顔に貼り付ける。


 「つまらん話をしてしまいました。忘れてください。」


 「いいえ。」

 美葉は首を横に振った。


 「つまらない話ではありません。……朱音さん。心の内を話して下さって、ありがとうございます。」


 美葉は深く頭を下げた。折角話してくれた心を大切にしなければと思う。


 「この8年間は、とてもお辛い時間でしたね。」

 朱音のグレーの瞳を見つめて美葉は言った。その瞳が、ぐらりと揺れた。


 「……ええ。」


 ため息のように、しめった声が溢れた。朱音は顔を背け、指先で目元を拭った。その姿に込み上げてきたものを、喉元に手を置いて鎮める。


 そして、達義は何故今リフォームを決意し、その詳細を妻に委ねたのかをもう一度考えてみた。


 『今後の人生をどう生きていこうか、ということも考えんといけません。』


 達義は確かそう言った。


 『これからの将来設計も奥様の一存に任せる、という事ですか?』

 『寝室を別にした方がええと妻が言うのなら、そうしていただいて結構です。』


 達義と交わした言葉を頭の中で反芻する。


 ある意味、残酷な意図が隠れている。美葉は奥歯を噛みしめた。


 これからの人生をどのように生きるつもりなのか、達義は妻に選択を突きつけた。別れを選ぶのならば、そうしても構わない。自分は妻の出した答えに全面的に従う。


 達義が突きつけた一方的なメッセージを朱音は察して、なお動けずにいるのだろうか。


 だが、この辛い8年をこれから先も続ける事の方が残酷な選択だとも感じる。妊活が中座し、そのまま宙ぶらりんになってしまった朱音の時間を、いずれかの方向に動かすべきだと感じた。


 「私が、口を出すべきでは無いのかも知れません。ですが、朱音さんのお気持ちを聞いて、感じたことをお伝えしてもいいですか?」


 美葉の言葉に、朱音は恐れるような眼差しを向けた。しかし、それは一瞬の事で、瞳を閉じてゆっくりと頷いた。美葉はぐっと腹部に力を込めた。


 「私は、旦那様が朱音さんに『もう一度生きよう』と誘っているような気がします。どのような生き方を選ぶのかは、朱音さん自身に決めて欲しいと願っている。……私も、そうして欲しいと感じました。朱音さんにこのまま、辛い時間に留まり続けて欲しくないと思いました。」


 朱音の瞳がうっすらと開いた。美葉は一つ呼吸をしてから言葉を続けた。


 「朱音さんが、進む道を選んだら、もう一度お二人でしっかりとお話し合いをするべきだと思います。心の中は、言葉に出して伝えないとわかり合えないと思うんです。対話することが、お二人にとって今一番大切なことのような気がするんです。」


 朱音は視線を上げて美葉をまっすぐに見据えた。美葉はその視線を受け止める。迷いや不安に揺れながらも、決断に向けて力を得たいと望んでいるような、グレーの眼差しを。


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