記憶を辿ると

 視線に気付かないふりをして足早に歩き続け、樹々に逃げ込んだ。身体を投げ出すように、自分のために作られた椅子に座ると、佳音は机にうつ伏せて肩で呼吸をした。


 あの男は、何者だ?


 ヌレダアキ。

 森山農園。


 男はその二つを探していた。


 佳音はハッと気付いてスマートフォンを取り出した。グーグルマップで自分の住所を検索すると、森山農園と表示される。古い情報が更新されていないのだ。心臓を掴まれるような怖気が襲い、両腕を抱く。


 『当別町の農園で働くアキさん。彼女は……。』

 テレビ番組に流れた女性の言葉を頭の中で反芻する。


 森山農園、とは一言も言わなかった。勿論、アキの名字も。言ったとしてもアキの名字は「木全」だ。


 『今の世の中、画像一枚で赤の他人に居住地を知られてしまう危険性があるんですよ。』


 職場の院内研修で、個人情報について講習を受けたことがある。そこで、衝撃的なことを聞いた。記念写真の背景に映っている電信柱からも、窓に反射する景色からも、写真を撮った場所を特定するヒントを得ることは簡単にできるというのだ。森山家が所有する農地は国道に面しており、電信柱が等間隔で走る。JRの駅もある。場所を特定するヒントは、山程ある。あの男は、テレビの映像からそのヒントを見付けて、ここを訪ねてきたのだろうか。



 パソコンに向かう陰湿な姿を想像し、肌が粟立つ。


 そして、「ヌレダアキ」。

 ヌレダ、というのは、アキの旧姓なのだろうか?


 その名は佳音の記憶の片隅をざわつかせる。だが、確実なものには結びつかない。記憶を探ろうとするが、空回りする車輪のようにもどかしく脳みそをかき回すだけだ。


 ふと思い付いて、スマホにその名を入力した。瞬時に大量の画像が画面に現われる。


 黄色のビキニから大きな胸元を溢れさせるどこかあどけなさが残る女。前屈みになり、紐のような下着から臀部をはみ出させ、悩ましげな顔をこちらに向ける女。


 「グラビアアイドル中澤みつき、ぬれた亜紀と改名してAV女優に転身。その名に非難殺到!」

 画像の下にそんな言葉が現われた。途端に、空回りしていた記憶が繋がる。


 『濡田って名前からして、やらしいよなぁ。』

 スクールバスの後部座席で、中学生の男子数人がスマートフォンの画面を覗き、こそこそ話をしている場面が鮮明に脳裏に浮んだ。


 スマートフォンが手の平を滑り落ち、フローリングの床を鳴らした。


 佳音がまだ小学生の頃だった。中澤みつきというグラビアアイドルは、天然のおバカキャラで人気者だった。しかし、ドタキャンや生放送への遅刻、深夜に繁華街で騒動を起こすなど度重なる問題行動で事務所を解雇された。その後、AV女優に転身するのだが、ある事件の被害者の名を捩った芸名を付けたため、大問題となった。程なく覚せい剤取締法違反で逮捕され、芸能界から姿を消したのだが、この騒動のせいで水面下で広がっていた被害者女性の名や素性が世間に晒されることになったのだ。


 その、被害者女性の名は濡田アキ。


 工房のドアがバタンと開いた。

 「どうしました!?……あ、佳音さん?」


 慌てふためいて駆けつけた正人が、佳音の顔を見てほっと笑みを浮かべる。だがそれはつかの間のことで、尋常ではない様子を察したのか険しく眉をよせた。


 「どうしました!?気分でも悪いのですか!?」

 駆け寄ってくる正人を、佳音は茫然と見つめた。


 佳音は、のろのろと首を横に振り、足元のスマートフォンを拾った。

 その画面を正人に見せる。


 「……さっき、家の近くでヌレダアキさんを探している男に会った。」


 そう告げると、正人の目が瞬時に吊り上がった。般若の顔でグッと拳を握り、踵を返して外に飛び出していく。


 開け放れたままの入り口から、激しい雨が吹き込んできた。

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