第二十一章 迫り来る危機
訪ねてきた男
佳音は散歩を日課にしている。
臨月が近付いて来た腹は重く、どうしてもよちよちとペンギンのような歩き方になる。足がむくみ、足の裏が痛い。出来れば動きたくないが、運動不足になるのは良くない。だから、散歩は絶対にさぼらない。多少雨が降っても傘をさして決まった散歩コースを歩く。
八月上旬の雨はムッとした空気を連れてくる。汗を拭うためにタオル地のストールを首に掛け、お気に入りの傘を差す。内側にピンク色のバラが咲き乱れている雨傘は、錬が買ってくれたものだった。
『雨の日でも散歩するんなら、少しでも楽しい方が良いだろ。』
蝦夷梅雨の時期に、照れくさそうにそう言って手渡してくれた傘。この傘のお陰で佳音は雨が好きになった。
敷地横の用水路に掛かる橋を渡ったときだった。道の脇に立ち、農場を眺める一人の男を見付けた。男が視線を向けているのは、野々村農園の農場だ。ぷっくりとした腹を前方に突き出している中年の男に薄気味悪さを感じ、佳音は視線を下に向けて通り過ぎようとした。
「……あの。」
思いがけず男に声を掛けられて、佳音はびくりと身体を揺らした。男の頬は白くたるみ、ニキビ跡を
「森山農園って、この辺ですよね。」
自分の家のことを言われ、佳音は戸惑う。咄嗟に、首を傾げた。
「さあ、どうでしょうね。よくわかりません。」
本当のことを言えば、「森山農園」はもうない。母は疾うの昔に農地を悠人の有機農場に貸し出し、自分名義の農園は廃業している。
「この前、テレビに出ていたヌレダアキさんに会いたくて、訪ねてきたんですけど……。」
男は、探るような視線を佳音に向けた。上目遣いに向けられた視線に、佳音は何故か寒気を感じた。咄嗟に自分の腕を抱くと、ぼつぼつと鳥肌が立っていた。
「ごめんなさい、知りません。」
佳音は男の横をすり抜け、足早に歩を進めた。
ヌレダアキ。
心臓が早鐘のようにドクドクと音を立てる。息が乱れるのは早足のせいだけではなかった。
すさまじい怒りを制御できず健太に殴りかかろうとした正人と、蒼白になったアキの顔が浮んだ。何故正人が怒り、アキが何に狼狽えたのかは分からない。ただ、あれ以来アキは笑わなくなった。怯えるように周囲を見回していることが多くなった。健太はよかれと思ってやったことが二人の地雷を踏んだと知り、シュンとしている。
早足で歩き続けていたが、息が苦しくなって足を止めた。荒くなった呼吸を整えながらそっと後ろを振り返り、悲鳴を上げそうになった。
男が、言葉を交わしたその場所から、じっとこちらを見ていたからだ。
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