何故そうまでして

 「美葉、そろそろ休もう。昨日もあまり寝てへんのやろ?」

 涼真に声を掛けられ、我に返る。


 集中が途切れ、ややイラッとしながらも笑顔を作って涼真を見上げた。


 「もうちょっとだけ。きりが良いところまでやってしまいたいの。李さん、ビザが切れる前にリフォームの概要を決めておきたいみたいだから。」


 李の物件を手がけることになってからも、時間に都合を付けて涼真に食事を作るようにしていた。片付けが終わった後は、ダイニングテーブルにパソコンを広げている。しかしここ三日ほどは涼真が忙しかったのでここには来ず、自分の部屋で仕事をしていた。正直なところ、自宅の方がはかどる。食事に時間を掛ける必要が無いし、こうやって集中を途切れさせることも無いからだ。


 頭の中に隙間を作らない。その為に、仕事に集中する。ありがたいことに今回の仕事は、外国人の風習や京町家を宿泊施設に改築するにあたっての規制など、学ぶことが一杯あり、時間はいくらあっても足りない。


 涼真は困ったように溜息をついた。


 「美葉は、結婚してもこんな風に仕事をするつもりなん?」

 涼真の言葉に、美葉は苦笑を浮かべ、首を横に振る。

 「まさか、そんなわけ無いでしょ。」

 「じゃあ、何で?いきなり何で仕事が欲しいと要求して、こんなに根を詰めてるん?」


 涼真が眉をしかめる。美葉は涼真の視線を避けてキーボードに目を移す。理由を正直に言うわけには流石に行かない。


正人を忘れるためなのだとは、言えない。


 「独身最後の大仕事、してみたくなったのよ。もう一回だけ、頭の中仕事でいっぱいにしてみたかったの。こんなこと、結婚したら出来ないでしょう?」


 涼真の言葉を待たずに、手を動かし始める。涼真が溜息をついたのが分かる。罪悪感を感じながらも、視線をパソコンの画面に固定した。


 「先に、寝て。ごめんなさい。」

 「……ええよ。無理、しなや。」


 諦めの声音を残して涼真が寝室に消えると、美葉はほっと息をついた。


***


 夜中に目覚めてトイレに行くと、ダイニングの明かりがぽうっと点いていた。その明かりの下で、美葉がテーブルにうつ伏せて眠っている。


 美葉を抱きたくて家に呼んだのに、仕事を始められてしまった。いらついて煽ったバーボンと眠気のせいで頭がぼんやりしている。トイレを済ませ美葉を起こそうとしたが、思わずその手を止めた。


 美葉の頬に、乾いた涙の跡があった。


 ハッと息を吐いて、頬に残る淡い筋を見つめる。苦い思いが込み上げて目をそらし、音を立てないように向かいの椅子に腰を下ろした。


 美葉を泣かせた夢は既に去り、安らかな寝息を立てている。


 そう言えば、去年美葉はずっとこうやって、半徹夜の状態を続けていた。美葉が故郷に帰ることが出来ないように、仕事を増やしたせいだった。美葉は敢えて、その時の状態に自分を追い込もうとしているのだろうか。


 何故、そんなことを?


 答えは、頬の透明な一筋が物語っている。


 髪に手を伸ばしたが、触れることが出来なかった。深い溜息が、自然にこぼれ落ちる。


 美葉を手に入れたと思っていた。もうすぐ結婚をし、名実共に自分のものになる。それは、押しつけではない。紛れもなく彼女が選んだ事なのだ。彼女がそう選択するように仕向けたのは自分だが。思惑通りに、自らの退路を断つようにして彼女は結婚を選んだ。


 ――断ち切った道の向こうに、大切なものを置き去りにして。


 ふと浮んだ言葉に愕然とする。


 『大切なもの』

 それは彼女の心そのものではないのか?

 涼真は目眩を感じて額を両手の上に落とした。


 もしもこれがただの思いつきではなく、真を付いていたとしたら。


そうだとしたら、美葉の心を手に入れることは永遠にないと言うことになる。


 強烈な胸の痛みに、思わずうめき声を上げる。


 一番欲しいと思っているものだけが、いつも、手に入らない。


 母親と、保志と、輝季の背中が、頭をよぎって消えていく。


 頭をテーブルに押し当てて、美葉の顔を覗いた。安らかな寝息が唇から漏れている。その唇に触れたいという衝動と、触れたら砕けてしまうのではないかという恐れが交錯する。すぐそばにいるのに、はるか遠い存在のようだ。


 置き去りにされた彼女の心は、どうなってしまうのだろう。

 心を失った彼女は、どうなってしまうのだろう。


 彼女は何故、そうまでして自分のそばにいてくれるのだろう。


 彼女は。

 美葉は。


 自分といて幸せになれるのだろうか……。

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