心を守る-1

 胸がずっしりと重たくて、色んな感情が渦巻いている。それなのに頭の芯だけが、やけに冷えていた。いつものように料理をしていると、喉が締め付けられるように苦しくなる。その都度手を止めて大きく息を吐き、呼吸を整える。


 『美葉ちゃんが僕の気持ちに応えてくれたら、他の女に手を出すようなことはせぇへん。そんな必要ないもん。』


 お試しで付き合い始める前に、彼は確かにそう言った。その2ヶ月前に華純と婚約をしていた。自分にプロポーズをするまで、平行して二人の女と付き合っていたことになる。


 社用で休日返上の忙しい時間を過ごしている。そう思っていた。その何割かは華純に充てていた時間なのだろう。華純が黙って身を引いていたら、何も気付かず結婚の日を迎えていただろう。


 同じようなことを、繰り返すのだろうか。彼は。


 そう考えると、息が苦しくなる。


 裏切りを繰り返される未来をどこかで確信している。頭では認めなければならないと理解している。そんな自分が不気味で仕方が無かった。心は、嘘偽りで塗り固められたこれまでの時間と、同様に続くかも知れない未来に、吐き気を催すほど嫌悪感を抱いている。


 ふと、瑞恵の能面のような顔を思い出した。そして、身体が震え出す。


 涼真の父も、沢山の愛人を作っていたらしい。子宝に恵まれないと周囲から責められ、夫は他の女に現を抜かす。そんな生活の中で心を失ってしまったのだと気付いてはいた。同じ道を自分も辿るのかと想像し、寒風の中針の莚に正座をするような感覚に襲われた。自分もいつか心を失い、能面のような相貌になるのだろうか。


 『結婚は、仕事じゃないんだよ。』

 いつかの佳音の言葉にはっと息を飲む。


 自分が結婚に臨む気持ちは、大きなプロジェクトに挑む気持ちと、大差無いのかも知れない……?


 その時、鼻腔を墨のような匂いが突いた。ハッと我に返りガス火を消す。鍋の蓋を開け、肩を落とす。金目鯛の煮付けが、焦げていた。


 『あーあ、やっちゃった。』

 母の声が耳の奥に響いた。鍋の前で肩を落とす母の背中が鮮明に浮ぶ。『どうしたの?』と問いかけた自分の視点は低かった。母は困ったような笑みを浮かべ、自分を見下ろした。

 『いらいらしてたら、煮物を焦がしちゃった。お父さん、酔っ払ってちり紙ポケットに入れたまま洗濯に出したから大変だったの。』

 直前に母が洗濯機の前でバタバタ暴れるような音を立てていた。

 『そうだ。お仕置きしよう。』

 母がにやりと笑った。


 美葉はふっと顔を上げた。


 母は、事を荒げない人だった。父が起こす騒動がそんな些細なことばかりだったからかも知れないが。洗濯物を裏返しのまま出すと、表に返さず畳んでおく。気付かずに裏返しのまま着た服のタグを掴んで甲高い笑い声を上げる。我慢もしない。伝えたいことを直球ではなく、笑えるような事に置き換えて伝えるから、我が家には笑いが絶えなかった。


 母のように、なれるだろうか。


 「お母さん、力を貸してね。」


 そう呟き、美葉は野菜室からジャガイモを取り出した。

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