交差する視線

 食事を済ませた後、美葉は紫陽花畑に涼真を連れ出した。まだ蕾の花もあったが、アナベルは既に白い花をこんもりと咲かせていた。


 母は毎年母の日に紫陽花の鉢植えを買い、秋に庭に植えていた。和夫と結婚してからずっと、続けていた習慣だった。だから、母の紫陽花畑には十五種類の紫陽花が植えられている。


 その、一つ一つの名を涼真に伝えながら紫陽花畑を歩いた。


 ふと胸に、昔ベンチに座って正人に紫陽花の名を伝えた日の風景が浮んだ。じんわりと太陽の日差しが照りつけ、手に持つアイスコーヒーのグラスが身体の熱を冷やしていた。


 振り切るように顔を上げた。視線の先に廃校の校庭が見える。校庭と道路は黄緑色のフェンスで仕切られているが、フェンスは雪の重みでへしゃげ、機能を果たしていない。管理するものがいない校庭は、芝生であったはずなのにいつの間にか茶色い地面が覗くようになっていた。


 そこに、男の子がしゃがみ込んでいる。


 あれは。


 美葉は息を飲んだ。あれは、正人の息子の猛だ。


 猛はこちらに背を向けているが、地面を一生懸命ほじくり返しているようだった。そこに、工房の勝手口から出てきたであろう正人が歩み寄って行く。


 思いがけず出会ってしまった正人の姿に、美葉の胸が早鐘のように高鳴る。その苦しさに思わず両手を胸に当てた。正人は猛の正面に立つと同じくしゃがみ込む。離れているので表情ははっきりとしないが、言葉を交わしているのは分かった。二人は立ち上がる。猛が両手をズボンに擦りつけた。正人はその手を取り、繋いでこちらに向かって歩いてきた。


 正人の目は優しく細められ、自分の方を見上げている息子の顔に眼差しを注いでいる。その視線がふと正面を向いた。


 美葉の視線と、正人の視線が交差する。


 ただ狼狽えていると、正人の視線が自分の斜め上にさっと動いたのが分かった。その時やっと、美葉は涼真が自分の横に立っており、その手が抱くように自分の左肩に置かれていることに気付く。


 正人は、こちらに向かって頭を下げた。約二秒間、そうしてから頭を上げ、蝦夷赤松をぐるりと回って体育館横の小径を猛の手を引いて歩いて行った。


 ――十七歳の早春。まだ解ききらぬ雪が残っていた。


 美葉は越してきたばかりの隣人に回覧板を渡すため、あの小径を体育館の中を覗き込みながら歩いた。そして、蝦夷赤松の根元に、栄養失調で倒れていた正人を見付けた。


 その場所を、かつて自分が歩んだのと逆の方向に、正人が息子の手を引いて歩いて行く。


 二宮金次郎の前に止めている軽トラックに向かっていく。正人が軽トラックの助手席を開け、小さな身体を持ち上げて座らせた。自分も運転席に乗り込む。エンジンが掛かり、軽トラックがゆっくりと走り出す。校門を出て左に曲がり、谷口商店と小学校を隔てる交差点を直進して行った。


 美葉はその白い車体が消えていくまで、茫然と見送っていた。

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