虹の向こう-1
「ほら、付いてきて良かった。どうも下心ありそうやと思っとったんや。」
ブツブツ言う涼真がおかしくて、美葉は声を上げて笑った。
「涼真さんがいなくても、のこのこ付いていくような真似はしないわよ。」
石畳が残暑の熱を放出し、熱せられた空気に熊蝉の鳴き声が溶けていた。噴き出した汗をハンカチで拭う。
不意に熱い空気の中を、ビュウっと冷たい風が吹き抜けた。その風は湿っている。悪い予感と共に見上げた空には、入道雲から姿を変えた積乱雲が黒々と広がっていた。
「雨が降る。」
美葉は呟き、手の平を空に向けた。すぐさまぽつりと雫が落ちる。
「雨宿りしよ。」
涼真が美葉の腕を掴み、走り出す。追いかけるようにポツポツと雨粒が落ちてくる。大きな数寄屋門の下に身体を滑り込ませると同時に、ざーっと雨が石畳を叩き始めた。
「通り雨やね。直にやむと思うけど。」
呟いて、涼真は空を見上げた。空はすっかり鉛色に染まっている。
「夏の終わりのにわか雨だね。」
南国のスコールのように、発達した積乱雲が雨を降らすことはよくあることだ。そんな雨は激しく泣く赤子のように突然降り出すが、けろっと止んで見事な夕焼けを連れてくる。
遠くの空が光り、遠雷が響いた。
美葉の脳裏に、洗濯物が物干しに取り残され、雨に濡れている様が浮んだ。慌てて取り込んで家の中に入ると、鍋から立ち上る蒸気が家の中を満たしていた。放り出した洗濯物が上がり框に水たまりを作って、玄関にポタポタと落ちた。引き戸の隙間から見えた母の足は、やけに白かった。
喉元に重たい塊が現われて、美葉は慌てて息を吐いた。
「……美葉、大丈夫?顔色悪いで?」
涼真が心配そうに顔をのぞき込んできた。美葉はもう一度息を吐き、笑顔を作る。
「大丈夫。雨って苦手なんだよね。」
「雨?雷やなくて?」
「うん。雷はそんなに怖くない。雨が苦手なの。」
話していると息苦しさは遠のいていった。美葉は安堵し自然に笑顔になった。
「お母さんが亡くなった日がね、こんな雨降りの日だったの。急に雨が降り出して、急いで家に帰ったら、倒れていたんだ。」
「……そうやったんか。」
涼真の声に驚きと労りが混じる。心配ないという気持ちを込めて涼真を見上げた。
「もうね、昔のことだから。昔は、雨の日は過呼吸になることもあったけど今は平気よ。日本なんて三日に一度は雨が降るんだもん。その度に調子崩してなんていられないわ。」
「過呼吸?美葉が?」
驚きを含んだ声に、笑みを返す。
「過呼吸持ちなんだよ、実は。でもね、対処法も知ってるから大丈夫。発作が起りそうになったら、息を吐くの。息を吐いたら、肺は勝手に空気を吸ってくれる。そう思ったら、すっと楽になるんだよ。」
見上げた空に、緑色の光が混ざる。
林の中の、小さな社。
突然雨が降り、正人と雨宿りをした場所だ。そこで発作が起った時、正人が教えてくれた。
『息、吐きましょう。息を吐いたら、肺は勝手に空気を吸ってくれますから。』
そう言って、大げさに息を吐いて見せた。
正人の言う通りにしたら、呼吸は元に戻った。その後で、心に蓋をしていたものを、ゆっくりと吐き出した。
母が亡くなってから、家事や店の仕事や勉強を、時間を切り詰めるようにしてこなしていた。だから、悲しんでいる暇などないと思っていた。
でも、そうではなかった。悲しむことを恐れて、向き合わなかっただけだ。
正人は美葉の中にある悲しみをそっと見付けてくれて、一緒に泣いてくれた。
背中が、じわりと熱くなった。
あの日、正人は背中を撫でてくれた。子供をあやすようだと思ったけれど、ずっとそうして欲しいと願った。あのぬくもりを、背中は忘れていない。
正人が与えてくれたぬくもりから、何時しか翼が生えたのかも知れない。広い空に憧れて、いろんな空を知りたくて、正人の側を飛び立った。
けれど。
「……だめだ……。」
美葉は思わず呟いた。
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