虹の向こう-2
「……だめだ……。」
美葉は思わず呟いた。
『自分の気持ちに嘘、付くなよ。』
『美葉には自分の心を偽らないで欲しい。』
健太の声と佳音の声が交互に耳に蘇り、ずっと目を背けていた真の気持ちに焦点を当てる。
――正人の元から空へ飛び立った。だから、正人の元にしか帰れない。
どんなに忘れようとしても、正人の事を一欠片でも忘れることは、出来そうもない。正人を失った穴は大きすぎて、何で継ぎ接ぎをしようとも埋めることは出来ない。
――それならば、堂々と穴の開いた自分で生きていこう。
静かに湧き上がった想いは急激に膨らみ、堰を切ったように胸に溢れてくる。熱くなっていく胸に手を当てる。
「涼真さん。」
込み上げる涙で、声が震える。
「涼真さんは、私の背中に翼を見たって言ったけど、その翼をくれたのは、正人さんなの。」
「……そうか。」
吐息混じりの言葉を吐いて、涼真は美葉の肩に両手を置き抱き寄せた。背中に、涼真の胸が当たる。湿った熱に熱せられたムスクの香りがふわりと身体を包み込んだ。
頬にさっと光が差す。
にわか雨が上がったのだ。見上げた空はまだ鉛の色を残していたが、その中央にうっすらと虹が浮かぶ。
『当別の空は、広いですね。』
あの日虹を見て言った正人の声が、耳に蘇る。
――そうだよ。当別の空は、広いんだよ。私が知っている中で一番広い空。
心の中で正人に呟いた。
――私が帰る空。
「美葉。」
涼真の手に力がこもる。
「そろそろ、帰り。」
え、と振り返ろうとしたが、涼真の手が身体を動かすのを許してくれない。
「もう、寄り道はお仕舞い。美葉が帰りたいところに、帰り。」
そう言った後、湿った息を吐き出した。
思い返せば一度も、涼真が泣いているところを見たことがなかった。悲しい顔は沢山見たし、心に根深く蔓延る孤独を感じもしたけれど、一度だって涙を見せはしなかった。
涼真の手は、美葉が振り返るのを拒んでいる。その力はそのまま、美葉の身体を前に押した。
この人はまた、孤独になってしまう。
一瞬心をよぎった言葉が、足を地面に固定した。戻るために向きを変えようとした背中に、涼真の笑い声が届く。
「違う男に想いを寄せる女が横におっても、寂しなるだけや。その上、浮気の度に嘘つきと罵られたらやってられへん。僕らはどうも、合わんみたいやな。」
――きっと、また、笑っているのだろう。偽物の笑顔を、顔に貼り付けて。
居たたまれない気持ちになって唇を噛む。しかし、振り返るわけに行かないことも分かっていた。きっとその頬には涙が流れていて、それを誰にも見られたくないはずだから。
もしも、振り返って彼の涙を見てしまったら、自分はもう傍を離れることが出来なくなるだろう。だがその選択は美葉にとっても涼真にとっても幸せなものではない。
真の心に気付いてしまった、今となっては。
「涼真さん。」
美葉は振り返る代わりに、空を見上げた。
「ありがとう。」
濡れて光る石畳に、一歩足を踏み出す。
鉛色の空に光が差す。京町家の瓦屋根を繋ぐ橋のように、虹が鮮やかさを増して行く。
その虹を見上げながら、前に向かって歩き始めた。
***
正人さんは、「自分の未来に美葉さんはいません」と言ったけれど、完全にいないことには出来ないわ。
だって、お隣さんなんだもの。
毎月、回覧板を届けに行こう。ついでに、珈琲を飲もうかな。閉店の時間に合わせて行って、掃除をしてあげよう。珈琲豆やミルクの補充もしてあげよう。
夏は、運動場でバーベキューをしようかな。運動場は町のものだから、正人さんが咎めることは出来ないはず。匂いに釣られて顔を見せたら、ちょっとくらいお裾分けをしてあげよう。
冬になったら、除雪を手伝ってあげようかな。除雪機の使い方を覚えて、店の前を綺麗にするついでに。
鍋を作ったら、小さな土鍋に一人分入れて、持っていってあげよう。その内にお父さんが、面倒だからうちで食べて行けって言うだろうな。
お隣さんなんだから、関わり合って当然なのよ。
「結局なんだかんだ言って、ずっと一緒にいましたね。」
なんて、いつか言うに決まっている。困ったように、頬を掻いて。
その時、お互いに皺と白髪だらけになっていても構わない。
二人でいることが、一番大切なんだから。
そんなことを考えていたら、自然に笑みがこぼれ心が幸せで満たされていく。
――空に虹が輝いている。
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