悩み事を聞いて下さい-3

 佳音は、こくりと頷いた。こんなに素直に頷くことが出来るのが不思議だった。


 「本当はね、錬が自分の為を思ってくれてるって分かってる。錬は心配してくれているの。私の身体も心も弱っていることに気付いてくれてる。だけど、錬の優しさを素直に受け入れられないの。優しくされたら余計に、自分が駄目だから錬に負担を掛けているって思っちゃう。」


 正人は労るように佳音を見つめ、何度も頷いた。


 「私が妊娠する前は、錬は仕事が終わってからもパンの研究をしてた。自分の店を持つために、一生懸命修行をしてた。でも私が妊娠したせいで、残業できなくなった。私が、錬の足を引っ張ってる。本当は夢を応援しなくちゃいけないのに。支えていかなくちゃいけないのに。」


 洗濯物を畳む錬を思い出し、居たたまれない気持ちになる。


 「仕事もそうなの。仕事を覚えるのが遅くて足を引っ張ってばかりだったのに、急に辞めるって言って長期間休んで、戻ってきたらすぐに妊娠で。夜勤できなくなったし、動きたくても動けなくなったし。迷惑ばっかり掛けているの。」


 涙が出そうになり、大きく息を吐いた。


 「自分が駄目な人間で、本当に嫌になる。」


 笑おうとしたが、上手く行かずに頬が変な形で引きつった。正人は真剣な表情のまま、佳音を見つめている。


 正人は、天井に視線を移した。そのまま、何かを考え込んでしまう。


 「いいの、正人さん。聞いてくれただけで、気持ちが晴れたから。」


 正人に吐き出した分だけ、軽くなった。それは本当のことだ。今なら、仕事から帰ってきた錬に謝ることが出来る。


 「……錬君は、佳音さんの手伝いをするのが、楽しいんじゃ無いでしょうか。」


 天井を見つめたまま、正人は言う。意外な答えに、佳音は無言で首を傾けた。


 「錬君は、ずっと佳音さんのことが好きで好きで仕方が無かったでしょう?それに、彼は人に奉仕したい人です。佳音さんの役に立てることが、今の錬君の喜びになっているんじゃ無いかなぁ。錬君、いやいや家事をしていますか?」


 佳音は、首を横に振った。


 「楽しそうかも。ニコニコしながら洗濯物を畳んだり、鼻歌歌いながらご飯作ったりしてるから。」

 「それは、素敵ですね。錬君、幸せなんだろうなぁ。」


 正人はうっとりと微笑んだ。佳音の心から、何かがポロリと禿げて落ちたように感じる。


 幸せ、なのかな。


 家にいるときの錬の顔を思い浮かべる。思い出す錬はいつも、ニコニコと笑っていた。


 幸せだと、思ってくれているんだな。


 冷え切った心に、じわりと熱が戻ってくる。


 「そう言えば佳音さん、色々あった職場にどうして戻ったのですか?悠人さん、働きにくいんじゃ無いのかな、職場変われば良いのになって心配していましたよ。」


 思い出した、と言うように正人はパンと手を叩いた。


 『あなたが辞めたら困ると、同じ病棟の職員がみんな言ってましたよ。あなたは、職場の空気を和ませて、いるだけで患者様に安心感を与えるそうです。元プリセクターも、あなたが成長したことをほめていました。慎重に仕事をするので時間がかかることもあるが、ミスがないので安心して仕事を任せられると言っていましたよ。あなたはどんなに忙しくても決められた手順をしっかりと守って、誠実に仕事をする。それは誰もが口をそろえて言っていました。あなたに、帰ってきていただきたいのです。もう一度一緒に、仕事をしていただけませんか?』


 事件の後、本当は職場を変わろうと思っていた。しかし、看護部長が事件を真摯に受け止めてくれ、そう言って自分を引き留めてくれたのだ。


 「看護部長さんに引き留められたの。その時、必要とされているって感じて、嬉しくて。でも、人手が足りないからだよ、きっと。」

 「看護部長さんって、佳音さん憧れの人では無かったですか?」

 「うん。凄く素敵な人。」


 怖い存在でもあったが、自分に向けてくれた誠意ある対応に感動し、この人のようになりたいと心から思った。


 ――看護部長は、適当なことを言って引き留めたりはしない。


 ポロリ、とまた佳音の心から固いものが剥がれた。


 『お帰りなさい。また一緒に働けて嬉しいよ。』


 そう言ってくれたのは、小林看護師と自分の噂をしていた人だった。彼女は控えめで、人の意見に合わせるタイプの人だ。会話の内容を思い出しても、自ら佳音の悪口を言っていたわけではないと分かる。相手に併せていただけだ。他の看護師も、仕事を変わって貰うようなことがあっても嫌な顔はしない。身体を気遣う言葉を掛けてくれる人ばかりだ。


 自分の見方が、悪いのだ。常に自分自身の行動を批判的な立場で捉えていた。


 『手際が悪い、判断が遅い、ケアレスミスが多い。』

 耳の奥に聞こえる罵声は、自分が自分に浴びせていたものだ。


 自分以外の誰も、自分を否定していない。


 佳音の心を覆っていた黒々とした固い皮が、ぼろぼろと剥がれていく。


 佳音は深く、息を吐いた。


 

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