第七章 別々の道を歩き始める
大切な約束
「約束」を守っていたら、お母さんは死ななかった。
『今日は、正人の誕生日ね。お母さん、駅前のケーキ屋さんでケーキを買ってくるから、一緒にお祝いしましょうね。』
あの朝、お母さんはそう言った。少し前から調子が良くなり、ベッドから出ている事が多くなっていた。正人は幸せな気持ちで一杯になった。誕生日を祝って貰うのは久しぶりのことだった。何より、元気そうなお母さんが目の前にいるのが嬉しかった。
『昔みたいに、ご馳走を作ることは出来なくてごめんね……。』
寂しそうに目を伏せるから、慌てて首をぶんぶんと横に振った。
『帰りに何か美味しい物を買ってくるよ。そうだ、お母さんが好きなロールキャベツを買ってくる。』
お母さんはにっこり微笑んだ。
『正人の好きなものを買ってきたら良いのよ。じゃあお母さんは正人の好きなチョコレートのホールケーキを買ってくるわね。……「約束」ね。』
『僕もロールキャベツを買ってできるだけ早く帰ってくる。「約束」だね。』
だけど、「約束」を破ってしまった。
友達が誕生日を祝ってくれるというので、少しだけ彼の家に行くことにした。一時間だけと「約束」したのに、出されたお酒を飲んだら酔っ払ってそのまま眠ってしまったのだ。
気が付いたら夜明け前で、慌てて外に駆け出した。帰りに寄るつもりだったデパートも開いていない。「約束」のご馳走を持たず、始発電車に飛び込んだ。
テーブルには、4号サイズのホールケーキが置いてあった。プレートに、自分の名前と誕生日を祝う言葉が添えられ、太めのローソクが1本と小さなローソク9本がそばに置いてあった。
遺書は、寝室で見つかった。誕生日を祝った後で、この世を去ると決めていた。息子のことが心配だったけれど、大学が楽しく友達も出来たようで安心した。自分の役目はもう終わりだと、書いてあった。
「約束」通りに帰っていたら、きっと異変に気付いたはずだ。なのに、「約束」を破ってしまった。
『できるだけ早く帰る。』『ロールキャベツを買う。』『友達の家にいるのは一時間だけ』
あの日交わした全ての「約束」を。
「約束」は、絶対に守らなければならないものだとは、思っていなかった。「約束」なんて誰ともしたことが無かったから。
お母さんは、「約束」通りチョコレートのケーキを買って、息子が「約束」通り帰ってくるのを待っていた。
その「約束」は、守られなかった。
どんなに悲しい気持ちだったろう。謝りたかった。すぐにでもそばに行って。
『正人、明日から8時に会社に行って工房の掃除をしなさい。1週間やり遂げるまで死んではいけない。お爺さんとの「約束」だ。』
旭川に連れて行かれ、暫くして祖父からそう告げられた。
「約束」は、守らなければならない。
『会社の人の名前を全部覚えなさい。覚えるまで死んではいけない。「約束」だ。』
『覚えた人の名前を呼んでから挨拶をしなさい。出来るようになるまで死んではいけない。「約束」だ。』
『家具作りの道具の名前と使い方を覚えなさい。出来るようになるまでは死んではいけない。「約束」だ。』
『図面通りにテーブルを作ってみなさい。出来るようになるまでは死んではいけない。「約束」だ。』
「約束」は、守らなければならない。
死ぬために「約束」を果たすけれど、祖父はその度に「約束」を課す。繰り返される「約束」を果たしている内に、家具職人になっていた。
祖父との最後の「約束」は「人を幸せにする家具を作りなさい」だった。その「約束」はまだ果たせていない。きっと果たせない「約束」なのだろうと思う。家具が人を幸せにすることは出来ない。幸せは人の営みの中にあり、家具は決して主役にはならない。だけど、幸せを求める人々の活力となり、共に生きていくことは出来る。
「約束」は果たせないけれど、大事な「答え」を見付けた気がする。
それに、もう自分は死を願ってはいない。母との「約束」を守らなかった後悔は残っているが、自分が死んでも母は喜びはしないと考えるようになった。
美葉と樹々という工房を作り、育てている内に。
『樹々を続けて欲しい』
愛する人から新しい「約束」を貰った。
これからは、その「約束」を守る為に、生きる。
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