ヘドロが溜まっていく

 千紗は台所で食器を洗っていた。のえると昼食を共にしたらしく、ほのかに醤油の焦げた匂いが立ちこめている。背中を見れば人の気配に気付いていることは分かる。しかし気付かないふりをしているのか手を止めることはなかった。


 悠人は壁にもたれて、千紗が食器を片付け終わるのを待った。


 千紗が身重の身体で当別に帰ってきてからずっと、こうやって千紗を見てきた気がする。


 千紗に何か困ったことが起こったら、いつでも手を差し伸べようと傍で見守っていた。けれど千紗は、何食わぬ顔で子供を産んだ。その子が病弱で、原因がアレルギーなのだと分かるとさっさと山の家に移り住んだ。それから一人で自給自足の生活を築き上げてしまった。


 見ているだけだった。見守ると言う言葉すら、おこがましい。自分に出来たことと言えば、「困ったことがあったら言いな」と頻繁に声を掛け、千紗が喜びそうなものを差し入れるくらいだった。千紗は一度も困っていると助けを求めることはしなかった。


 ずっと傍観者だ。今も。


 食器を水屋に仕舞った千紗が、眉間に皺を寄せてこちらを振り返る。流石に食器を洗い終えた後も悠人に気付かぬふりをするのは難しいと思ったのだろう。


 「いるんなら、声くらい掛ければ。」

 黙っている事が、千紗には意地悪く感じたようだ。


 「ごめん。」

 悠人は素直に謝って、壁から身体を離した。


 「帰ろう。」

 千紗は顔を動かさずに視線だけを向けてきた。

 「分かってる。」

 そう言って、テーブルの上の鞄を手に取る。


 いつもなら、このまま黙って家に帰る。そして何事もなかったように日常に戻っていく。だがその度に、千紗と周りの人間との関係にヘドロのようなものが溜まっていくように感じていた。このままこんなことを繰り返していてはいけない。そう思って、言葉を探す。


 「……叩くのは、良くないと思うんだ。」


 ここに来る道中で、一つだけ注意しておきたいと思っていたことを口にした。喧嘩になるかも知れないと覚悟していたが、千紗は意外と素直に頷いた。


 「帰ったら、謝るから。」

 「そう、した方が良いと思う。」


 我ながら無責任な言い方に呆れる。千紗は鞄を肩に掛け、悠人の横をすり抜けて歩いて行く。


 玄関で靴を履きながら、振り返る。その場から動こうとしない悠人にイラッとした視線を投げた。このまま帰るのは良くないと思いながらも、議論をするために口を開けることも、帰るために脚を動かすことも出来ずにいる。千紗が眉間に皺を寄せた。


 「言いたいことがあるんなら、言いなさいよ。」


 喧嘩をしに来たんじゃない。だが何か言えば険悪になるのは目に見えていた。悠人は千紗から視線を逸らした。しかし、この状態になってしまったら、何も言わずに帰ったとして気まずくなるのは避けられない。


 ならば、ぶつかった方がましか。


 悠人は意を決して口を開いた。


 「あんな風に言い合いにならないようにできないのかい。」

 千紗は視線だけを下に向けた。

 「頭ごなしに言うと、反発するしか無くなると思うよ。」


 千紗は口を結んだ。こんなことは、きっと言わなくても分かっている。分かっているけれど抑えきれないのだ。その原因を聞くでもなく、自分もまた頭ごなしに千紗の行動を責めている気がした。


 「……最近、口が悪いのよ、あの子。」

 そっぽを向いたまま、千紗が言う。


 「こんな身体に産みやがって、なんて言われたら、どう返していいか分かんない。」


 悠人は口を閉じ、千紗の視線と逆を向いた。


 千紗に何を返せば良いのか、分からない。


 千紗は一つ息を吐くと、踵を返して自分の車に乗り込んだ。エンジンが掛かり、悠人から遠ざかるように前進していく。悠人も自分の車に乗り込んだ。


 また少し、お互いの間にヘドロが溜まる。その根底にあるのは、自分の無責任さなのではないかと思い、唇を噛む。


 このまま家族でいることは、正解なのだろうか。


 去来する疑問に対峙する覚悟が持てないまま、エンジンを掛ける。

 

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