第九章 夫婦喧嘩
震える身体-1
美葉が京都の人になる。
それは、佳音にとって大きな打撃となった。高校を卒業してからずっと、名古屋と京都もしくは札幌と京都と離れていたが、美葉は必ず当別に帰ってくると信じていた。自分達もいずれは当別に帰る。近い将来、また同じ町で暮らせることを楽しみにしていたのだ。
美葉の存在はずっと佳音の支えだった。その美葉が、身も心も遠い場所に住む人になる。
今までと何ら変わりが無いはずなのに、急に心細くなってしまった。
それで無くても、最近メンタルバランスが乱れがちだ。錬の些細な言葉を被害的に取り、落ち込んだり攻撃したりしてしまう。錬が受け止めてくれるから喧嘩にならないけれど、こんな人間と生活を共にするのは辛いだろうと思う。
お腹が大きくなるにつれ、身体はどんどん動きにくくなる。佐々木師長から気にするなと言われたが、『あの子迷惑よね』という言葉が耳から離れない。出来るだけ他の看護師の足を引っ張らないようにと必死になって仕事をすると、お腹が張る。生理的なものだからと言い聞かせて無理をするが、一方で切迫早産に繋がらないかという不安もあった。
佐々木師長は佳音の身体への負担を減らすため、病棟のリーダーや配薬係を任せるようになった。リーダーは医師に患者の状態を申し送り今日行なう処置の指示を貰い、他の看護師にそれを伝える。他の職種とのやり取りも同様に行なう。その日の患者の状態や行なうべき処置を把握して他の看護師に指示を出すのだ。
一方で配薬係は薬局から受け取った薬を患者毎に分類し、一日分をトレーに分ける仕事で、最もミスが起こりやすい業務だ。
どちらの業務も、身体は楽だが神経を使う。
今日は配薬係で、指示箋を確認しながら分類していた。
「あー、疲れた。最近ずっと動きっぱなし。座ってする仕事を誰かさんが独占してるせいで。」
小林看護師が佳音の横を通るときにぼそりとそう言った。
『あの子、迷惑よね。』
実際に言われた言葉に、以前言われた言葉が被さるように聞こえた。動悸が激しくなる。
集中しなければ、ミスしてしまう。投薬ミスは、時に命に関わる。
両手に点滴のパックを持ち、青ざめた顔でナースステーションに入ってきた小野寺の顔が突然浮んだ。
『この点滴をセットしたのは誰ですか。患者様を取り違えていましたよ。』
それは、佳音が行なった点滴だった。隣り合う患者の点滴を間違って投薬してしまったらしい。その一つにはインスリンが入っており、全量投与したら命を落としていたかも知れない。
『重大なミスを犯すぞ。』
耳元でそう脅す小野寺の声が聞こえる。あたかもそこにいるように耳たぶに掛かる息と鼓膜の振動が蘇る。
薬包を持つ手がブルブルと震えだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます