けじめを付ける
朝から谷口家の掃除をした。風呂を磨き、窓を拭き、廊下の床を拭き、絨毯に掃除機を掛けた。仏壇の水を入れ替え、菊の花を小さな花瓶に活ける。遺影の笑顔を見つめてから、手を合わせた。
それから、米を炊き、豚汁を作る。
豚汁に味噌を入れ終わった時、店と居住空間を分ける磨り硝子を開けて和夫が顔を見せた。
「親父さん、丁度良かった。お昼ご飯にしませんか?」
「……ああ。」
和夫はぽかんと口を開けたまま頷いた。
ご飯と豚汁、浅漬けと卵焼き。これまでの人生で一番心を込めて食卓を整えた。
「いただきます。」
両手を合わせて軽く頭を下げた。
無言のまま、食事を進める。
初めてこの食卓で雑炊を食べた日のことを思い出していた。美葉の顔には警戒の色が浮んでいたが、見ず知らずの小汚い男に消化の良い物を作ってくれた。
あれから、何度ここで食事をしただろう。涙が出ないように、目の奥に力を入れる。
最後の食事に、涙を流したくなかった。
「ごちそうさん。美味かったよ。」
和夫が箸を置いた。
それを見届けて、正人は居住まいを正した。
「親父さん、申し訳ありません。僕、美葉さんと正式にお別れしたんです。」
和夫は僅かに眉を寄せた。
「そうか。」
短い言葉で応じる。娘がとんぼ返りで京都に戻ってしまった理由が、正人との仲違いであることは把握しているはずだった。正人に離婚歴があったことも、この狭い地域の噂話で耳にしているだろう。正人は美葉が京都に帰ってからは谷口家に足を運んでいなかった。
「娘さんを傷つけることになってしまい、申し訳ありません。」
正人は和夫に頭を下げた。そのまま、和夫の言葉を待ったが、何もないことを察して頭を上げる。
「これまで、沢山お世話をしていただき、ありがとうございました。一緒に食事をして頂き、風呂に入らせて頂き、洗濯をして頂き、ありがとうございました。」
もう一度、頭を下げる。
数々の思い出が蘇り、胸がぎゅーっと締め付けられる。だが、泣かないようにぐっと奥歯を噛みしめる。
美葉と別れた以上、谷口家に出入りすることは出来ない。だが、せめて最後にお世話になった家を綺麗に掃除し、料理を作り和夫に礼を言いたかった。
「正人。」
和夫が自分の名を呼ぶ。この人には、息子のように心をかけて貰ったと思う。本当に、感謝しかない。
「お前が美葉と別れた事と、この家に出入りするしないは関係ないぞ。」
意外な言葉に、はっと顔を上げる。和夫は、寂しげな眼差しを自分に向けていた。
「ここにお前が来るかどうかは、俺とお前の関係性の問題だ。俺はお前とこうやって飯を食うのは楽しいし、風呂から聞こえる変な歌を聴くのも楽しい。お前がここに来たいと思ったら、いつでも来たら良いんだ。」
「親父さん……。」
込み上げてくる涙を正人は必死に堪える。
「その、ヘンテコな呼び方が、『お父さん』に変わるのはくすぐったいと思っていたがな、その日が来ないと分かるとちょっと寂しいな。残念だが、お前が家族である事には、何ら変わりがない。」
涙を堪えることは、もう出来なかった。溢れる涙を手の甲で拭いて、正人はもう一度頭を下げた。
「……ありがとうございます。ありがとう、ございます……。」
和夫の優しさが胸にじんと染み渡る。しかし、正人はその申し出を受けるわけには行かないと思った。美葉はいずれ、共に生きる人を連れてくる。その時に赤の他人の男が、まして一時期でも付き合っていた男が出入りしているのは、どう考えてもおかしいことだ。
美葉の人生を、邪魔することは出来ない。そんな事をしたら、何のために美葉との関係を絶ったのか分からない。
「ありがとうございます……。」
正人はもう一度和夫にそう伝えた。
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