口の中のビッグスリー-4

 「それで、スペースデザイン事業部を……。」

 美葉が入社した年に片倉も入社し、佐緒里と三人でスペースデザイン事業部を始めた。


 「そう。美葉ちゃんを一人前のデザイナーに育てることが最初の僕の目標やった。まぁ、実務は片倉君が担ってたけどね。そして、もう美葉ちゃんは立派なプロのデザイナーや。これからは、美葉ちゃんが飛びたいと思う空を、一緒に創っていきたい。それが、僕の夢。」


 涼真の瞳はまっすぐ美葉を見つめ続けている。


 そこには偽りや嘘はなく、真剣な想いしか無いように見えた。内心、涼真は遊び半分で口説いているのだと思っていた。中々落ちない相手にムキになっているだけなのだと。涼真の気持ちが真剣であると感じれば感じる程、どうして良いのか分からなくなる。


 「でも、いきなり結婚してっていうのは、重たいやろ?」


 美葉の気持ちを見抜いたように涼真が言う。ちくりと刺す痛みと共に、美葉は小さく頷いた。


 「……私、まだ受け止め切れていないんです。正人さんと別れたこと……。」


 正人の名を口にしただけで泣きそうになる。がらんと空いた心を『仕事に生きる』という決意で何とか支えている。だがその決意だけで支えきれずに何かの拍子でくしゃりと潰れてしまいそうだった。


 「ええやん、それで。」


 テーブルの上に置かれた美葉の手に、涼真は手を重ねた。柔らかく、日焼け一つしていない綺麗な手だ。


 「僕が、美葉ちゃんと知り合ったとき、もう既に美葉ちゃんはあの男が好きやった。僕はずっと、あの男のことを想う美葉ちゃんを想ってきた。美葉ちゃんの心にあいつへの愛があっても、失恋の痛みがあっても、僕はそれごと美葉ちゃんを愛してる。」


 「社長……。」


 美葉は涼真の手の下でぎゅっと拳を握った。泣きそうになる痛みを自分の手の平に食い込む爪の痛みで紛らわそうとした。その上に、いたわるように涼真の手が力を加える。


 「美葉ちゃんの心を、僕が上書きしてあげる。」


 そう言ってから、涼真はぴんと人差し指を立てた。

 「まずは、お試しで付き合ってみよう。」


 そう言って、爽やかな笑顔を見せる。


 「……お、お試し?」


 異様に爽やかな涼真の笑顔に、美葉は首をかしげた。涼真はおどけるように美葉と同じ方向に首をかしげてみせる。


 「そ。いきなり結婚とか、真剣なお付き合いは今の美葉ちゃんには難しいやろ?だから、お試し。合わんな、と思ったら振ってくれて構わへんよ。恋愛は二つの心でするもんやからね。僕がいくら美葉ちゃんのことが好きでも、美葉ちゃんが実際つきおうてみて嫌やと思ったら成立せぇへんやろ?だから、成立するかどうか、試してみよう?」


 「お試し……。」

 美葉は、涼真の言葉を口の中で繰り返した。


 ふと、舌の上に雲丹とキャビアとワインの風味が蘇る。

 顔を上げて美葉は涼真を見つめた。


 この人は、自分が知らない世界を知っている。その世界に飛び込んでみたら、自分の世界も変わるかも知れない。


 当別の空しか知らなかった自分を京都の空の下に連れ出し、異国の空まで見せてくれた。この人なら、正人と樹々という狭くて居心地の良い世界を忘れさせてくれるかも知れない。


 美葉は、涼真を見つめたまま頷き、こう伝えた。


 「じゃあ、まずはお試しで……。」

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