社長の恋人ー3

 美葉は湯呑みを置いて涼真を見つめた。帰宅した直後の疲労感は薄れ、心の底からリラックスしているようだ。夫婦になるとはこういうものだろうかと思うと、何故か胸がざわざわ蠢いた。


 余りのいたたまれなさに思わず立ち上がり、窓辺へ向かう。五重塔のすぐそばに、少し欠けた月を見付けた。

 「今日は月が綺麗だよ。」

 自分の振るまいが余りにも不自然だったと気付き、言い訳のように言葉を吐き出す。


 元旦の夜に見た月も、こんな形の月だった。


 キンと冷えた空気や、佇む月の青さ、自分をそっと包んだ正人の腕と冷たい唇。突如洪水のように現われた記憶にめまいを起こしそうになり、ぎゅっと目を瞑る。その肩に、涼真の手が触れた。


 窓に映る涼真を見て、美葉ははっと息を飲む。窓越しに見つめる瞳が寂しげに揺れていたからだ。頭の中をのぞき見られたような気がした。涼真の顔が歪んだように見えたが、すぐに見失った。涼真が自分を抱き寄せ、視界がその胸に支配されたからだ。


 「……美葉の心は、今、どこにおる?」

 

 問いかけに、言葉を失う。


 自分の心がどこにあるのか。問いかけられて、思い知る。涼真と付き合っていても、1㎜も心は動いていないことを。


 そんなことではいけない。自分の事を想い、傍にいて欲しいと望んでくれている人に心を向けなければ。何時までも未練たらしく思い出にすがっていては、前を向いて歩いて行けない。


 「……涼真さんが幸せだと思うことを、いつも探しているよ。自分が、涼真さんの役に立てたらいいって、いつだって思ってる。」


 それは嘘ではなかった。いつも涼真が望むことを、心地よいと思うことを、安らげると思うことを、明日の活力となることをしたいと考えている。


 涼真の腕に、力がこもる。


 「どこにも、行かんといて欲しい。一生、そばにいて欲しい、美葉に。……美葉だけに。」


 美葉は、即答することが出来なかった。その意味を頭で解釈する。答えが明確な形になる前に、涼真が言葉にした。


 「僕と結婚して欲しい。結婚して、こうやって毎日一緒に食事をして、話をして、お茶を飲んで……。そんな当たり前の時間を、美葉と過ごしたいんや。」


その言葉を聞いて、瞬時に脳の芯がキンと冴えた。


これは現実なのだ。来るべき時が、来たのである。ならば確かめておかなければならない事がある。


 「私に、涼真さんの奥さんが、務まる?」

一番懸念している事を、問いかける。


 「え?」


 涼真は身体を少し離し、美葉の顔を探るようにのぞき込んだ。美葉は判定を煽ぐ生徒のような気持ちで、涼真を見上げた。


 「私に、社長の妻が務まると思う?……冷静に、判断して。」

 涼真はふっと笑った。そこに哀愁が一瞬混ざり、消えた。

 「美葉は何でも、卒無くこなすやろう。社長夫人としても、才能を発揮してくれるはずや。」


 涼真の言葉を聞き、美葉は決意を固めた。

 「だったら。」


 涼真を、まっすぐみつめる。

 「ふつつか者ですが、よろしくお願いします。」


 くっと喉を鳴らして、涼真は少し俯いた。

 「まるで、採用試験に合格した社員みたいやな。」


 顔を上げた涼真は楽しげに微笑み、人差し指で美葉の額をはじく。

 「真面目な奥さん。僕の方こそ、ふつつかな夫ですがよろしくお願いいたします。」


 自分の言動が、プロポーズを受けた女のものとかけ離れていたことに気付き、美葉は苦笑した。そして、兼ねてから疑問に思っていたことを口にする。

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