恋愛ごっこ

 突然立ち上がり窓辺に立った美葉は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。あの男を思い出しているのだと、瞬時に気付いた。


 美葉は恋人としての役割を理解し、自分に尽くしてくれている。聡明な彼女は社長と付き合うという意味を理解し、役割を果たそうと努力しているのだ。

 

 まるで、自分に与えられた仕事のように。


 当初の予定通り、事が運んでいた。後は彼女が社長の妻として充分な資格を持っていないと自覚し、身の丈のあった立場に収まることを選択すれば良いだけだった。しかし何故か、咄嗟にプロポーズをしてしまった。


 彼女の心が、欲しい。他の誰かを思う彼女がそばにいるのではなく、自分を愛して欲しい。心の底から。


でも、いつまで経っても美葉はあの男を忘れない。


 美葉が傍にいるのなら、他に何もいらないと、あの時本気で思ってしまった。どうかしている。しかし、もう覆す気持ちはなくなっていた。このまま事を進めて行くのはリスクが大きすぎると理解している。それなのに、冷静な判断に心が従って行かないのだ。


 美葉の心を手に入れたい。

 その欲望に、理性が太刀打ちできなくなってしまった。こんなことは、初めてだ。


 「涼真さん、お待たせしました。」

 華純の声に我に返り、立ち上がる。クリーム色のワンピースの裾を軽く揺らして華純がホテルのロビーからティールームに続く階段を降りてくる。ハイヒールの足音は、毛足の長い絨毯が吸い込んでいる。


 華純はダージリンを注文した。飲み物が運ばれてくるまで何気ない会話を貼り付けた笑顔で交わす。


 運ばれてきた紅茶に口を付けた華純を見て、今日は淡いグロスしか付けていないことに気付く。突然の呼び出しだったから、いつものような背伸びをした格好をしていない。まだ世間を知らないあどけないお嬢様が目の前にいる。


 この子を傷つけずに済んで、良かったのかも知れない。


 ふと思った言葉が、これから自分が伝える事への言い訳だと感じて苦笑する。


 「急にお呼び立てしてすいません。」

 涼真は居住まいを正し、口火を切った。華純の瞳に、困惑が浮ぶ。その恐れを裏切らないように、努めて事務的な口調で涼真は告げた。


 「華純さんと結婚を前提にお付き合いをさせて頂いておりましたが、関係を解消させて頂きたいのです。」


 華純の顔からさっと血の気が引いた。見開かれた瞳が、言葉を飲み込むのを拒否しているように映る。それを無視して涼真は更に言葉を続けた。


 「お別れして頂きたい、ということです。」


 華純の喉仏が、小さく上下に動いた。顎先が小刻みに震え始める。

 「……何で、ですか?」

 微かな声が問いかける。その答えはもう用意している。彼女を極力傷つけず、納得の上綺麗に別れなければならない。彼女の父の逆鱗に触れず、会社同士の関係に傷を付けずに事を済ませなければならないのだ。


 「私は会社の経営者として、片腕となる女性との婚姻を選択したいのです。」

 華純の唇が震えた。

 「……私では、お役に立てへんと?」

 「そういう訳ではありません。華純さんのように無垢でおっとりとした方を、会社の経営のようなすさんだことに巻き込みたくないのです。……実は、あなたに見つかってしまった悪戯相手が有能な女性で、生涯にわたって私の仕事を支えてくれると感じたんです。その方と……。」

 「だったら。」

 珍しく華純が相手の言葉を遮った。涙をためた瞳で、涼真を睨み付ける。

 「だったら、その方を愛人にしはったらいいじゃないですか。」


 大粒の涙が、ポロリと溢れて頬を伝う。


 「私は、涼真さんのお嫁さんになるのが夢やったんです。ずっと、お慕いしていたんです。やっとやっと、夢が叶うと思うとったのに……。」

 「承知しています。だから、尚更……。」


 苦しげな表情を作り、視線を逸らす。

 

 「無垢な愛情を踏みにじるようなことを、しとう無かったんです、僕は。」

 苦しそうに聞こえるだろう溜息を一つ吐き、続ける。

 「あなたは、僕が愛人を作るようなことをしても、受け入れようとするでしょう?僕は、その深い愛情にのうのうと甘えてしまう人間なんです。あなたが頭でそれを良いと捉えていても、心に嘘はつけんのです。きっといつか、辛いと感じるようになる。」

 「それでもええと、言うています。私には覚悟が出来ています。」

 「僕が嫌なんです。」


 なおも食い下がる華純に辟易とした気持ちを抱きつつ、それを隠して悲しい表情を保つ。


 「華純さんには、欠けることない愛がお似合いです。どうか、幸せな恋愛をして、本当に好きだと思える人を、自分だけを愛してくれる男性を見付けてください。」


 涙に濡れる華純を見つめてから、深く頭を下げた。


 「華純さんの幸せを、僕は願い続けています。」

 立ち上がり、華純に背を向けた。背中に華純の声が聞こえた。その声は、涼真の名を呼んでいた。


 茶番だ。

 身体の中がスカスカになったような気がした。寒気を感じながら、夏空を仰ぐ。


 大人達が用意したおもちゃで、お嬢様が恋愛ごっこをしていただけだ。それは本物の愛ではない。利用されて薄汚れる前に、遊びをやめて良かったと思う日が来るだろう。


 太陽に翳した手の平は黒い影を作り、それが己の作り出したどす黒い垢のように見えた。

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