第十一章 恋人の先
安寧な家庭を築くための奉仕
助手席の華純は疲れた表情をしていた。着慣れているとは言いがたい着物に身を包み、長丁場の歌舞伎の演目を何とか瞼を閉じずに見終えてぐったりしているのだろう。最近歌舞伎に興味を持ち始めたというので初心者向けの演目を選んで連れてきたが、予習が足りなかったようだ。
歌舞伎は演目の名場面のみを3題程上映する「見取り」と一つのストーリーを上映する「通し」があり、初心者は「見取り」を選んだ方が良い。「通し」ではよくわからない場面が延々と続き、どうしても眠たくなってしまう。だが、名場面だけを見るのであればそれこそストーリーの予習は不可欠だ。
華純のような若者が囓るのであれば「超歌舞伎」という、アニメを歌舞伎に取り入れた演目の方が良いだろう。そう勧めたのだが、「そんなのは邪道です」と頑なに突っぱねられた。服装にしても、何も着慣れない和服を着る必要は無い。幼少時代から茶華道を習っているという自負があるようだが、余り熱を入れていなかったのは所作一つ見ればわかる。
華純はどうしても、身の丈以上に自分をよく見せたいようだ。だが疲れ切ったお嬢様は、隣でウトウトと船を漕ぎ始めた。赤信号で停車すると、ハッと我に返り背筋を伸ばす。
品の良い表情を取り繕ってこちらを振り向く。
「私お料理教室に通い始めたんですよ。」
恥じらいながら華純がそう口にした。
「それは……、もしかして僕のためですか?」
涼真はその恥じらいに照れを滲ませた笑顔で応じる。
「今度、ご披露させてもろうてもええかしら?」
探るような瞳が信号に照らされて赤く光る。涼真は嬉しそうな笑みを繕い、内心肩をすくめた。華純は家に上がりたいのだろう。だが、それは避けるのが賢明だ。
二人の女を家に入れたら、鉢合わせになるリスクを背負ってしまう。
美葉も出来れば余り家に招きたくはない。だが、付き合い始めてから急に「忙しいのに時間を取らせるのは申し訳ない」と言い、こちらの時間に合わせて家に来て食事を作るようになった。外で会うのは営業に華を添える必要があるときだけだ。まるで女房気取りの振る舞いに辟易とする。
美葉の心は手に入れたい。しかし結婚はまた別だ。美葉には本妻になれないことを理解し受け入れさせなければ。その難題をクリアするためには二人の鉢合わせは絶対に避けなければならない。
「華純さんの手料理は、先の楽しみにとっておきます。自宅だと油断して門限を破ってしまうかも知れませんからね。」
華純は一瞬すねた子供のような顔をした。
「だから、お家に行きたいんです。ずっと一緒にいたんです。」
「僕も出来ることならそうしたいです。でも、華純さんのお入りになっている箱は厳重ですから。」
「もう……。」
今度は本当に頬を膨らました。何でも手に入れてきたお嬢様らしくかわいらしいのだが、門限を守らず連れ回してはこちらの評判に傷が付く。
「では、今度旅行に行きましょう?お母様にはそれとなく、近々お友達と温泉旅行に行くと伝えてあるの。」
「そうなんですか。では、良いところを押さえておきましょう。」
心底嬉しそうな笑顔を向けると、華純は一切濁りのない喜びを露わにする。旅行など長時間拘束される付き合いも疲れるが、今後のために今は精一杯ご奉仕しておいた方が良い。
愛情などどうせ湧かない。だが、家庭が荒んでいては気が滅入る。
信号が青に変わりアクセルを踏む。心なしかいつもよりも乱暴な発進になってしまった。
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