ここへ来た理由-1
「っあー!」
佳音が容赦なく塗りつけた消毒液は焼けるほど傷口にしみた。
「手加減しろよ!乱暴な看護師だな!」
「誰が乱暴よ。プロが直々に処置してあげるんだから、感謝しなさい。」
佳音は再びオキシドールをたっぷり含んだ脱脂綿を傷に押し当てた。
「ひー!」
再度悲鳴を上げると、錬がクスクス笑った。
「健太は受け身が下手だからなー。柔道の授業でもさ、毎回先生に投げられて頭ぶつけてたもんな。」
「あいつ、風気だったから俺を目の敵にしてたんだ。……っって!」
佳音が絆創膏を傷口に貼り、そこをぽんと叩いた。
「はい、出来ました。お礼くらい言って良いんだよ。」
「はいはいっ。ありがとさん!」
佳音を睨み付けて言葉を投げ捨てる。
わざとらしい応酬が終わると、空気がシンと冷えた。
アキという女は所在なげに壁際に立ち、猛はその足にしがみついたまま爪先をトントンと床に打ち付けていた。焦げ茶のショートボブに切れ長の瞳。細い眉。ヤンキー顔というタイプの顔で俯くその姿は、ふて腐れているように見えた。正人は蹲るように椅子に座っている。美葉は青い顔のまま窓の外を凝視していた。錬と陽汰が、気まずそうに顔を合わせる。佳音が小さく溜息をつきながら救急箱を片付けている。
壁に掛かった寄せ木細工の時計が、コツコツと時を告げる。猛の爪先がトントンと床を鳴らす。その二つの音は、気まずい静寂を際立たせていた。テーブルの上に並んだご馳走は申し訳なさそうにラップの内側に存在を隠している。
美葉が無表情のまま身体を起こし、歩き出した。誰の顔も見ず、ふらふらとした足取りで工房へと消える。居たたまれずに居場所を移したのだろうか。それも仕方が無いと思った。
しかし美葉はすぐに戻ってきた。三角を模した背もたれの椅子を抱えて、真っ直ぐに正人の方へと向かっていく。
美葉は正人の横にその椅子を置き、アキに視線を移した。
「この椅子は、あなたの椅子ですか。」
感情を含まない静かな声に、アキは目を見開いた。
「……なぜ、ここに……。」
美葉の言葉を肯定する問いかけに、正人の肩がピクリと震えた。
「その子は、正人さんの子供ですか?」
「え?」
アキは、驚きの声を上げ言葉を繋ごうとした。だが、その言葉は正人の声にかき消された。
「アキ。」
鋭い声が、その名を呼んだ。美葉は一瞬ひるんだような顔をしてから、正人の顔を凝視する。
「子供の心を、傷つけたら駄目です。」
叱るような厳しい声に、アキは狼狽えたような表情を浮かべる。
「どんなに苦しくても、子供を放り出すようなことをしたら、駄目です。」
アキは湿った息を吐き、俯いた。顔が髪に隠れて見えなくなる。その俯いた姿は、健太が疾うの昔に忘れていた記憶を想起させた。
スケッチブックに描かれた、妊婦。華奢な身体をこの背もたれに預けていた。その腹部はふっくらと膨らみ、慈しむように手が添えられていた。顔は描かれていなかったが、目の前に居る女に間違いなかった。
思わず美葉に視線を向けると、美葉は哀しい顔で頷いた。あの日美葉と一緒に、その絵を見たのだ。正人がこの工房を開いて間もない頃のことだった。
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