序章
序章-1
石狩川は雪解け水で増水し、川岸の木々は幹まで水につかっている。女は自転車を停め、黄緑色の欄干から蕩々と流れる水面を見下ろした。
かつて探し求めた理想の流れがそこにあった。
こんなに身近にあったのに、探すことを忘れていたとは何という皮肉だろう。思わず口の端に自虐の笑みが浮ぶ。
この流れであれば、この身体を内に沈めて海まで運んでくれる。
胸に湧いたのは、その場所を見付けたという安堵であった。実行するための決意などもはや必要は無い。もう一度この場所に戻ったら、当然のごとくこの欄干を超える事が出来るだろう。
「あ!」
母が自転車を停めたので、後ろから付いてきていた息子も同時に自転車を停めていた。この春小学校二年生になったばかりだが、同学年の子供よりも身体が小さい。切り詰める生活の中で必要な栄養をとることが出来なかったのかも知れない。身体には少し大きい子供用の自転車に乗り、疲れたとも言わず母の後を付いてくる。そのけなげな姿に心を痛める。
息子が指さしたのは、青く澄み切った空だった。
雲一つ無い青空を、白く大きな鳥が飛んでいる。
「綺麗な鳥!」
はしゃぐように、息子が声を上げる。
その優雅な羽ばたきに女も目を奪われた。美しい姿態は、ひるむこと無く青空を真っ直ぐに渡って行く。その姿を羨望の眼差しで見つめる。このように力強く生きてみたかった。しかし、自分には翼など最初から無い。自分は地面を這いつくばるミミズのようだ。このような人間の人生にこれ以上愛する我が子を巻き添えにするわけには行かなかった。
昨夜は、公園で夜を明かした。
よく行く公園には蛸の形の滑り台があり、隠れんぼで使うような穴が空いていた。それを見る度に過去を思い出し怖気が走ったが、息子はその穴に潜るのが好きだった。
穴の中に、スーパーマーケットの店舗裏から拾ってきた段ボールを敷き詰め、穴を塞いだ。公園のゴミ箱に捨てられていた新聞紙をかき集め息子の身体を包み、自分の着ていた防寒着を被せ、少しでも暖を採れるようお互いの身体を密着させた。息子は冒険の旅に出たようにそれを喜び、すやすやと寝息を立てた。
静かな寝息を聞きながら、再びここに戻ってきてしまった事に愕然としていた。
この穴で夜を明かしたことがあった。場所は全く違うのだが、同じような遊具があったのだ。あの夜のあの暗い穴は自分の人生を象徴しているようだと思っていた。そこに、息子を連れて来てしまった。
結局の所自分には何の価値も無いのだ。それは嫌という程分かっていたことなのに、何を勘違いしたのか一つの命を産み落としてしまった。何の価値も無い人間に、人を育てる力があるはずは無いのに。
その事を、思い知らされた夜だった。
もう、守れない。
この子の命を救う方法は、たった一つしか見付けられなかった。
女は自転車のスタンドを立て、息子の前に跪いた。癖の無い髪をそっと撫でる。
「疲れてない?もう少しかかるけど、大丈夫?」
「大丈夫!メロンパン食べたから!」
息子は素直に頷いた。太い眉が父親に似ている。その小さな身体を抱き寄せた。
力を込めて抱きしめる。この先与えるはずだった愛をこの瞬間に託すように。
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