台風前夜
午後から出社する旨を秘書に伝え、涼真は当て所なく車を走らせていた。
華純はやはり子供だった。表向きは元婚約者の会社を案じる余りに見えるが、欲しいものが手に入らずだだをこねるような行動だったのだろう。だが、今、華純を選んでいた方が良かったと後悔している。
『嘘は嫌なの。』
そんなことを言う女など、面倒なだけだ。この先何かある度に責められては身が持たない。今なら何か理由を付けて婚約を破棄する事も出来る。
冷静なはずだった。それなのに、心がずしりと重い。一瞬見せた涙顔が、頭から離れない。美葉があんなに悲しい顔を見せたのは、初めてのことだった。
『分かった。今回だけは、許す。』
そう言われたとき、安堵した。二度とこの人を傷つけまいと思ってしまった。次の瞬間、そんな人らしい気持ちを抱く自分が気味悪く思えた。
『許す』
美葉の声とともにある光景が脳裏に蘇ってきた。
***
まだ幼い自分は、茶室で保志と隠れんぼをしていた。床の間に身を隠し、鬼の気配を探っていた。その内に保志の足音が聞こえてきた。今思えばわざと大きな足音を立てたのだろう。鬼が来る前に別の場所へ移動しよう。そう思って駆け出そうとした時だった。
足元の花瓶を蹴飛ばしてしまった。倒れた花瓶は真っ二つに割れ、水が床を塗らす。椿が悲しげに横たわった。
駒子の前に保志と並んで正座をした。
『誰が、花瓶を割りましたか。』
静かに問うた声に、反射的に保志を見上げた。保志は一瞬顔をしかめたが、面倒臭そうに頭を掻いた。
『ええやんけ。花瓶の一つや二つ。』
今思えばそんな言葉で済ませられるような、安価な物ではなかっただろう。だが駒子は静かに頷いた。
『割れたものは、仕方ありません。形あるものはいつかは壊れるのです。私が怒っているのは、そんなことではありません。』
ガミガミと叱責されるのかと覚悟して首を竦めた。しかし駒子の声は静かなままだった。
『誰でも、失敗はします。大事なのはその後。自分がしでかしたことを受け止め、償う事から逃げたらあきません。どんな些細なことでも。受け止めて、向き合って、その罪が己の血となり肉となった時、初めて赦されるのです。』
花瓶を割ったのは自分ではない。その事実は出来上がった筈だった。だから、保志に向けられた言葉だと、他人事のように聞いていた。
***
輝季の四十九日は、寂しいものだった。
母親は家を出て、精神的なダメージを癒やすため実家近くの精神科に入院していた。父親の保志は、生存確認は出来ているものの行方知れずとなっていた。
祖父母と叔母と涼真だけが、がらんと広い居間で正座をし、僧侶の読経を聞いていた。台風の前触れの雨音が木魚の音に混じっていた。
『赦さなあきません。』
読経に混じり、駒子の小さな呟きを聞いた。視線をあげると、しわだらけの手にぽつりと雫が落ちて浸みていくのが見えた。
『……いつかは……。』
その呟きは余りにも小さく、涙が落ちた音のようだった。
何を赦すというのだろう。
子供を殺した父親か?その愚行を止められなかった己自身か?
無性に腹が立ったのを覚えている。
――赦す。
大罪を負ったのは、そこにいた全員であり、姿を見せなかった両親であり、いじめたクラスメイトであり、放置した教師だった。
その内の誰が罪に向き合い償ったのだろう。
輝季の背中は、汗で湿っていた。その感触は手の平から消えていない。しかし、感じないようにしてきた。
誰も、輝季を助けてやらなかった。
自分も含めて。
『分かった。今回だけは、許す。』
向き合うことから逃げるために人の心を捨てた人間を、美葉は許して信じ、付いていくと言った。
なぜ、彼女はそんなにも、こんな自分を愛そうとするのだろう?
街路樹が大きく揺れている。そう言えば、明日今年始めて台風が関西に上陸する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます