カルテ4 白猿の爪痕 その4

「え〜、時は1920年代、つまりこちらの世界で百年ほど前、カナダというちょっと寒い国で、農場の牛が次々と変死するという異変が起こりました。出血が止まらなくなったり、赤い母乳を出して死んでいったのです。丹念な調査の結果、牛たちは皆、腐ったスィートクローバーを食べていたことが判明し、スィートクローバー病と命名されました。そしてウィスコンシンという所で、この腐ったクローバーからジクロマールという物質が精製され、これこそが病気の原因だと特定され、ジクロマールから、ウィスコンシンの施設の頭文字などを取って、血液を固まりにくくするワーファリンという薬が作られました」


「なるほど、確かに、以前出血が止まらなくて死んでしまう仲間を見たことがあったが、まさか腐ったクローバーのせいだったとは……」


 ミラドールは唸った。実は彼女はスィートクローバーのサラダが大好物であり、一昨日群生地で摘んできてカバンにしまってあり、時々食べていたのだが、この夏の暑さで早くも腐ってきた、というわけだった。


 彼女は本多に請われるまま、カバンの中から一本摘み出して手渡した。


「ほう、これがそのクローバーですか。確かにこちらの世界のものとそっくりですね〜。これ、頂いてもよろしいですか?」


「別に構わんが、一つ教えてくれ。何故これを食べると血が止まらなくなるのだ!?」


 ミラドールは大きな胸ごと身体を前に突き出し、本多に詰め寄った。


「それを説明すると長〜くなりますが……まぁ、掻い摘んで言いますと、出血を止めるためには、血の塊、いわゆる血栓っていうものを作らねばなりません。それの作成に関わるプロトロンビンという物質は、肝臓の中で生成されるんですが、そのプロセスはビタミンKという栄養素によって強まります。ワーファリンはこのビタミンKを抑えちゃうので、プロトロンビンの量が減り、結果的に血栓が出来にくくなるってわけですね。ね、長かったでしょ〜?」


「……はぁ」


 あまりにも知らない単語が多すぎて、ごく一部しか話の内容が理解できなかったが、感覚的に流れはなんとかイメージできたので、ミラドールは納得したふりをした。


「で、結局どうやったら治るのだ? 何か高価な薬がいるのか?」


「僕が今言った中にヒントがあります。薬なんてこれっぽっちも必要ありません。ちょっとお待ちください。良いもの持ってきてあげるよ〜ん、フフフ……」


 どことなく邪悪な笑みを浮かべると、本多はどっこいしょと椅子から立ち上がり、ドアを開けて部屋から出て行った。


 限りなく不安を覚えたミラドールだったが、クローバーを言い当てた彼の眼力を信じ、借りてきた猫のように大人しく腰掛けて静かにしていた。


 待つことしばし、彼は、白い薄っぺらい容器に入った、何やらネバネバする茶色いツブツブを持って帰ってきた。


 たちまち異臭が部屋いっぱいに充満し、繊細なミラドールの嗅覚を苦しめる。


「腐っっ! なんだこの汚物は!?」


「ひどいなあ、せっかく僕のおやつを持ってきてあげたっていうのに。これは納豆という、豆を発酵させたものでして、ビタミンKをいっぱい含んだ食べ物です。ちょっとクセがありますが、食べ慣れるととっても美味しいですよ〜。茨城って地方では、これを麺類にぶっかけて食べるそうですがね。さ、遠慮なくどうぞ!」


「く、腐った豆など口にできるかぁ!」


 ついにミラドールはブチ切れ、部屋を飛び出そうとした。この医師は悪魔以上だ。


「あれあれ〜、腐ったクローバーを美味しくムシャムシャ食べたって、おっしゃってたじゃないですかぁ〜?」


「む……うぐぅ」


 ミラドールもこれには言い返せず、貝のように口を噤んだ。相手の方が一枚上手だ。


「さ、おあがりよ!」


「で、では、一口……」


 獰猛な肉食獣に相対する時以上の勇気を振り絞って、決死の覚悟を決めた女狩人は、差し出されたスプーンに乗った恐るべきネチャネチャした物質を口腔内に一気に押し込んだ。


「ん?」


 見た目と臭いほどは意外と悪くない味に、彼女は二度驚いた。


 豆にかかったソースによると思われる甘辛い味付けによって、独特な臭みが中和され、後を引くような濃厚な味わいとなっている。


「む、むぅ……大丈夫だ」


「ね、そうでしょ?」


 先程までミラドールにとって悪魔の如き存在だった本多は、天使のようににっこり微笑んだ。


「ま、後はステリーテープを貼って、包帯をしておけば、直、止まりますよ。後でうちの優秀な受付嬢兼看護師にさせましょう」


「うむ、かたじけない」


 ミラドールは口についたネバネバにもかかわらず、腐った豆を頬張り続けながら答えた。


「ところでミラドールさん、あなたは何故、イーブルエルフなのに、エルフと偽っているんですかぁ?」


「!」


 今度こそ本当に、雷に撃たれたようにミラドールは全身が痺れ、納豆を喉に詰まらせそうになった。

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