カルテ59 符学院の女神竜像 その13

 庭園に面した大鐘楼は月のない深夜にも関わらず、そこだけ星の光を遮っているため存在感を発揮していた。秋の夜空は澄み渡り、涼風が花壇の秋桜をくすぐるように揺らしていた。新月の夜は刻々と深まり、虫の音だけが広い庭園に木霊していた。庭園をコの字型に取り囲む学生宿舎並びに職員宿舎も深々としており、皆寝静まっている様子だ。


「なんか昼間とは違って迫力あるよね……」


「な、何よ、今更怖気づいたっていうの?」


「そ、そうじゃないけど……本当に大きいね」


 ソルは左手に持ったランプを目一杯高く掲げ、花壇の端から中央のものを見上げた。


 黒々と巨木のようにそびえ立つ魔竜は、全身を鱗に覆われ、人間なんぞひと踏みにできそうな凶悪な後ろ脚と、丸太のごとき長い尻尾で大地に根を下ろし、ワイバーンと同じく前脚はないが、大鷲のような巨大な一対の羽根を肩部より大きく広げ、胸部には人間の女性のような二つの膨らみまであり、その美しき頭部は闇に溶けて現在は目視できなかった。見れば見るほど異形の化け物だが、これが悪魔の技とも言われる魔獣創造実験による産物というのであれば、いささか納得できそうだった。


「エリザス先生が毎日ここで水をやっていたのって、お姉さんの供養の意味合いがあったのかしら……?」


 珍しくプリジスタが的確なことをのたまったので、突っ込み体質のソルは、「どうしたのプリジスタ!? 明日は雪でも降るの!?」と余計な台詞を吐いてしまった。


「どういう意味じゃ、こわっぱ!?」


「ご、ごめん、つい……よし、それじゃやるぞ!」


 ソルはゴクリと唾を飲み込んで決心を固めると、心中詫びながら、花の比較的少ない部分を選んで花壇に踏み込んでいった。ようやく女神竜像の足元まで来ると、少年は深呼吸しながら、右手に金槌をしっかり握りしめた。


「えいやーっ!」


 気合一閃、上半身に力を込め、鋭く尖った爪先めがけてハンマーを振り下ろす。確かな手応えとともに、ピキッという音を立て、微かにヒビが入ったかに思われた。


「やった、プリジスタ! いけそうだよ!」


「でかした! これに免じてさっきの失言は許してあげるわ!」


「よし、もう一丁!」


 勢いに乗ったソルは、再度肘を曲げてハンマーを構えると、同じ箇所に叩きつける。暗闇に散る火花とともに、再びわずかに陶器の欠けるような音が響いたが、まだまだ石像自体が壊れる気配はなさそうだった。


「うーん、この調子じゃ、だいぶ時間がかかりそうだな……」


 ジーンと痺れてきた右肘を左手で撫でながら、ソルが渋い顔をする。


「ちょっと、私にもやらせてよ! 面白そうだし!」


 いつの間にやら花壇にズカズカと侵入してきたプリジスタが、ソルの右手からさっとハンマーを奪い去る。


「あっ、やめなよ! 結構力がいるし、女の子には無理だよ!」


「大丈夫! こう見えても昔弓矢の特訓してたけど、結構上手かったのよ。確かグルファストじゃドワーフの戦士がバトルアックスをブーメランみたいに投げて敵と戦ったりするんでしょう?」


「そういう言い伝えもあるけど、まさかそれ投げるつもり!? ハンマーと弓矢じゃ全然違うよ!」


「だからってあんたみたいに指先なんかをちまちま叩いていてもダメよ! きめるなら相手の顔面を狙わないと!」


「こんな暗闇で無理だって!」


「問答無用! それーっ!」


 人の忠告を無視するお嬢様は、右手をブンブン水車のように振り回すと、勢いよく金槌を魔竜めがけてぶん投げた。ハンマーは放物線を描きながら女神竜像の頭部を綺麗にスルーして飛んでいき、ガシャーンと何かの砕け散る音が響き渡った。


「あらららー?」


「ああっ、だから言わんこっちゃない! 宿舎のビドロ窓を割っちゃった! あれってすっごく高いんだぞ! このド下手くそ!」


 ソルは頭を抱えてうずくまり、血の涙を流した。


「な、何さ! ちょっと手元が狂っただけよ! それに緊急事態だし、これくらい許されるって!」


 投げた当の本人は、知らぬ存ぜぬを通して偉そうに踏ん反り返っている。


「ああ、今度こそ退学だ……」


「あんたも男なら細かいことは気にするなっつーの!」


 二人が不毛な言い争いを続けていると、突如、背後の白亜の建物の中から、何かの魔力が波のように押し寄せてくるのが感じられた。


「こ、今度は何よ!?」


「ま、まさか……」


 ソルが恐る恐る顔を上げ、魔竜の方に視線を戻すと、今まで石灰色だった像の表面が、まるで磨き抜かれた瑠璃のように青く輝き、冷たい光を放っていた。


「エエエエエエエリザス先生が石化を解いたんだ!」


「なななななななんですって!?」


 像の真下で泡を食ってパニック状態の少女と少年に対し、「二人ともそんな所にいたのー? 早くそこから離れなさい!」と聞き慣れた声が飛んだ。


「「エリザス先生!」」

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