カルテ266 エターナル・エンペラー(前編) その11

 骨折の完治した少年は結局故郷の村に帰ることはなく、ラベルフィーユとともにアクテ村のツリーハウスで暮らすこととなった。月光よりも麗しいエルフの美女が語るところによると、彼女の両親はかつて魔物に襲われ命を落とし、それ以来村長のアロフトが親代わりとなるも住まいは別々のためずっと一人暮らしであり、同居人が出来てとても嬉しいとのことだった。


 彼はラベルフィーユについて行って近くの森を散策しながら薬草や山菜などについて学び、また、沢から水を汲んで運んだり、燃料のために柴刈りをしたり、料理や掃除を手伝ったりし、その合間合間に趣味の昆虫採集を続けた。アクテ村の周辺は金の蝶をはじめ巨大なトンボなど見たこともない虫が無数に存在し、彼にとっては天国だった。


 その日も朝の水汲みの途中で桶を川原に置いたまま、かがみこんで石ころをひっくり返していたところ、背後に肌寒い空気を感じた。


「あら、珍しいじゃない。坊や、人間なの?」


 突如後ろから聞こえてきた女性の声に驚き、危うく彼は指を石に挟みそうになった。


「だ、誰!?」


 振り返るとそこには、こんな人里離れた深山には相応しくない、麦わら帽子を被った純白のワンピース姿の女性が樹陰に涼しげに立っていた。歳の頃は二十代半ば程度で、長い黒髪から覗く両耳は尖っておらず、ほっそりとして山影に咲く白百合のように綺麗だったが、どう見ても人間の範疇だった。


「誰だっていいじゃないのさ。坊やは一体こんなところで何してんの?」


 ややはすっぱな口調はエルフとの会話に慣れつつあった少年にとっては刺激的だったが、どこか非現実的な響きを帯びていた。


「お姉さんこそこんな山奥でどうしたのさ?」


 少年は悪戯を見つかった時のようにどぎまぎしつつも平穏を装い、質問に対して質問で返した。


「あら、聞いているのはあたしの方なのに。でもいいわよ。あたしはここで待ってるの」


 謎の女性は帽子のつばを触りながら奇妙な返事をして、少年をさらに煙に巻いた。


「何を待っているの? 誰かお姉さんを探しに来てくれるの?」


 もし知ってる村の人だったら嫌だなあと思いつつも、少年は腰を上げてキョロキョロと辺りを見渡した。だが彼ら二人以外の人影は今のところ見当たらず、青葉闇の下を清流が滔々と過行くばかりだった。


「違う違う、答えを待ってんのよ。もうずーっとね」


 冷めた口調で理解不能な台詞をつぶやきつつ、女性はやおら濡れたように赤い唇を大きく開くと、彼に向かってあっかんべーのごとく舌を突き出した。


「!」


 少年は女性の予想を上回る行動に対し、知らず後ずさる。まだ透明な午前の日光に照らされた彼女の舌は槍の如く突出してやけに長く感じられ、まるで血が滴り落ちるかのように赤くぬめっていた。


「うわああああ!」


 急にわけのわからぬ恐怖に捕らわれた少年は、桶を放り出したままその場を逃げ出した。しかし後からは誰も追いかけて来る気配がしない。離れたところで振り向いて確認すると、もう川原には誰もおらず、ただ金色の蝶が場違いに咲いた珍花奇葉のごとくひらひらと舞っているばかりだった。

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