カルテ182 眠れる海魔の島(前編) その6
ゼローダとイレッサがやぐらで出会う数日前、ゼローダの家では、身重の妻のアラベルが、つわりに苦しみながらも、寝たきり状態の義母のアーゼラの介護をしていた。海に注ぎ込む河口付近に立つ木造で茅葺き屋根の室内には大した家具もなく、寝具は干し草を詰めた布袋のみだった。
「……すまないねえ、いつも迷惑かけて。お前も大変だろうに」
「いいんですよ、お義母さん。それより背中を拭きましょうね。あら……」
義母の身体をせっせと濡らした手拭いで拭いていたゼローダの妻は、老女の臀部に近い背中部分の皮膚が剥け、びらんを起こしていることに気づき、眉をひそめた。
「いつからあったのかしら、これ……お義母さん、痛くないですか?」
「足やら腰やらいろいろと身体中痛いんで、全然気づかなかったよ……仕方がないねえ。これもご先祖様が悪さをした祟りかねえ……」
「さすがに関係ないと思いますよ。でも、弱ったわねえ。これってどうやって治せばいいのかしら。この村にはライドラース様の神殿なんてないし……」
「あってもどうせ無理だよ、あそこのヘボ神官なんぞには」
老女は皺だらけの顔を歪ませながらも、黒い台詞を口にした。
「お義母さん、そんな罰当たりなことを言ってはいけませんよ」
「ま、うちにはお金もないし、頼むことすら出来やしないけどね。やれやれ、こんな時……」
「まさか、伝説の、あれですか?」
「そうそう、うちに残っている伝説とは比べ物にならないくらい素晴らしい、『白亜の建物』だよ。一遍でいいから姿を拝んでみたいもんだけどねえ……」
「それこそ無理ですよ。うちは奇跡から最も縁遠い家系だって、いつもおっしゃっているじゃないですか」
「確かにそうだけどねえ、運っていうのはバランスがどこかでとれるように出来ているもんなんだよ、多分。私は若い頃夫を海の事故で亡くしちまったけれど、息子のところにあんたみたいないい娘が来てくれたじゃないか、そういう風にさ」
「そんな、私なんて……」
アラベルは手を止めると、髪に挿した赤い花と同じ色に頬を染めた。
「それにしても、そろそろ夕方だっていうのに、うちの息子はまだ帰ってこないのかねぇ」
長男の嫁の紅潮した顔を見てふと気になったのか、アーゼラは窓の方を見やった。
「もうちょっとかかるんじゃないですか、お義母さん。まだ外は明るそうですよ」
アラベルはドアの隙間から微かに差し込む白い光にちらっと目をくれながら、義母の清拭を再開した。
「そうかい、今日はやけに日の暮れるのが遅い気がするけれど……なんだか妙な胸騒ぎがするし、ちょっと外を見てきてくれないかい?」
「はいはい、わかりましたよ」
時々駄々っ子のように頑固になる彼女の扱いに長けたアラベルは、やれやれまたか、と内心呆れながらも手早く残りの作業を終えると、義母に服を着せ、布団に横たえた。
「お願いだよ、早くしておくれ」
「はいはい」
生返事をしながらアラベルは玄関に向かうと、大きくドアを押し開いた。
「……っ!」
その時目にした光景を、彼女は一生涯忘れることはなかった。普段なら海漂林が水中から立ち並ぶ川岸が眼前に広がるやや開けた家の前の空き地に、沈みゆく夕陽を遮るように白く四角い未知の建造物が立ちはだかっていたのだ。
建物の複数あるビドロ窓からは見たことの無い白色光が発せられ、驚きのあまり声もないアラベルのやや褐色の肌を照らし出していた。この謎の光が先ほど戸口から入り込み、偽りの昼を演出していたのだ、と遅ればせながら彼女はようやく気がついた。
「……白亜の建物!」
振り返ると、無理矢理気味に半身を起こした老婆が震える指先を前方に突き出しながら、声を裏返していた。
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