カルテ189 運命神のお告げ所(後編) その5
鎌の先端のように鋭い月が下界を見下ろす中、一仕事終えたとばかりにケルガーは牛頭のまま「ふうー」と大きくため息をつくと、近くの手ごろな岩にどっこいしょと腰かけた。
「いくら人狼とはいえ、簡単には這い上がれんだろう。ましてや非力な人間一人を抱えたままではな」
確認するようにつぶやくと、彼は袋を膝に下ろしてその口を緩め、中をそっと覗き込んだ。あの激しい戦闘にもかかわらず、穴兎族の子供は揺り籠に抱かれているかのようにすやすやと可愛い寝息を立てている。
「よしよし、いい子でいてくれよ。さてと、勝利の記念に酒でも一杯……といきたいところだが、そういや任務中だったな」
ごつい手で袋の奥底にある特注の高価な水筒をついでに取り出そうとしたケルガーは、寸でのところで飲酒欲求に耐えた。以前酒でやらかした大失態が脳裏に去来し、無敵のミノタウロスは風邪でもひいたみたいに小さく身震いした。
ケルガー・ラステットは、元々インヴェガ帝国の帝都プロペシアの貴族出身で、皇帝ヴァルデケンに絶対の忠誠を誓う近衛兵だった。といっても皇帝陛下は常に御簾の後ろに座し、直接御尊顔を拝することは叶わなかったが。
幼い頃より剣の修行に明け暮れ、体格にも恵まれた彼は皇帝を護衛する近衛兵に大抜擢されたが、人一倍酒と女に目がなかった。彫りが深く厳つい顔立ちではあったが洒落者であり、人当たりの良さと話の上手さから女性にもて、しかも酒の飲みっぷりが豪快で金払いも良く、更には腕っ節も強いため、酒場でも一目置かれる存在だった。よって、一夜限りの関係を繰り返してもあまり問題となることはなく、文字通り独身貴族生活を謳歌していた。
そんな彼がファム・ファタル的な女性に出会ったのは、十年以上も前のとある春の宵だった。長い冬がようやく去って活気溢れる北の都の夜の街に仕事帰りに繰り出した彼は、酒場でカップを手に一人黄昏ている、長い金髪に赤い薔薇の髪飾りを刺した、地上に顕現した美の化身かと思われる﨟たけた女性に一目で心を奪われた。今思えばその女性に声をかけたのが転落人生の第一歩だったのだが、当時の彼には知る由もなかった。
エリザスと名乗る美女といつのまにやら意気投合した彼は、負けた方が全額支払うという条件で、酒場の主人をレフェリーとして飲み比べを開始するも、彼女も彼に負けず劣らず中々のウワバミで、勝負は日を跨ぎどんどんエスカレートしていき、気がつけば彼の自室で二人は酔い潰れて寝ており、結果懇ろな関係になった。
だが、彼女がその日の朝に祝言を控えていた花嫁だとはつゆ知らず、しかもその相手が自分の直属の上司だとベッドの中で知って、哀れなケルガーは全裸のまま酔いも一気に覚め、天国から地獄へ直滑降で墜落する気分を味わった。
こうしてすっぽかされた花婿は激越な口調で彼ら二人を罵倒し、其奴が持てる全権力を行使したお陰で、ケルガーとエリザスは彼女の姉妹諸共北の果ての悪名高い魔獣創造施設に実験体として強制的に送り込まれることとなった。筋骨隆々とした屈強な彼はそれにふさわしい姿としてミノタウロスへの改造が決定され、牛や悪魔との融合などの語るもおぞましい実験の結果、めでたく牛頭の怪物へと生まれ変わったのであった。
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