カルテ140 グルファスト恋歌 その5

「あら、ごめんなさい、ネシーナ。でも今いいところなんだから、少しの間いい子にしてくれる?」


 額に冷や汗を滲ませながら、恋する乙女の表情から母親のそれに瞬時に変わったマリゼブが、胸元に抱えている娘の顔を覗き込む。


「はぐあーっ! だでもーんっ!」


「ちょ、ちょっと何を言いたいのかわからないわ」


 そりゃ口を塞いでいるからだろ、とミルトンは思わず突っ込みそうになったが、それよりも手負いの獣のようにひたすら喚き続けるネシーナの口にした言葉が気になり、つい耳をそば立てた。まさか……。


「お嬢さんは、ひょっとしてこう言いたいのかい? 『白亜の建物』と……」


 途端に暴れ馬さながらの少女の動きはピタリと静まり、コクコクと首を縦に振った。


「と、突然どうしたのよ、ネシーナ。白亜の建物なんか、どこにも……」


「マリゼブ、あそこだ! 見ろ!」


 ミルトンが大きな声を張り上げながら、血のように赤く染まった水面を指差し、マリゼブの言葉をかき消した。フロリード池の中には、草に覆われているだけの小さな平べったい島があり、飛び石を踏んで渡ることができるが、なんと名前すら無いその島の上に、燦然と光り輝く白い箱状の建物がいつの間にか出現し、早くも訪れつつある宵闇の中、そこだけくっきりと周囲から浮き上がっていた。


「「……」」


 言葉を失って、ただひたすら異形の存在を見つめ続ける大人二人の足元で、小さい影が、「はくあのたてものおおおおおおおっ! おいしゃさあああああああんっ!」と叫びながら、母親の拘束を振りほどくと、池に向かって脱兎の如く駆け出していった。



「いらっしゃいませ。『ユーパン』からのお客様ですね?」


 たとえ池に浮かぶ小島から夕陽に映える古城の神秘的とも言える雄大な姿を堪能出来る絶景ポイントなロケーションであっても、白亜の建物の守護神たる赤毛の受付嬢ことセレネースの表情は普段と全く変わらず無機質そのもので、眉ひとつ動かすことはなかった。


「「はあ、そうですが……」」


 ミルトンとマリゼブの言葉が、合唱のごとく和し、待合室に響いた。先に入ったネシーナはどうしているかというと、待合室のソファに裸足でよじ登り、うんしょうんしょと平均台のように背もたれの上を歩いており、見ていて非常に危なっかしかったが、突然の出来事に翻弄されている二人には、とても止めるどころではなかった。


「見慣れない内装だけど、ここって本当に噂通り異世界なのかしら……?」


 マリゼブがコバエの羽音よりも小さい、ミルトンにだけ聞こえる声で囁いた。


「では、今から治療のための問診票を作成しますので、まず、あなた方のお名前、種族、性別、年齢を教えてください」


 セレネースがいつものマニュアル通りの応対をするが、そこで患者扱いされていることに気づいた彼らは、はたと我に返った。


「ち、違うよ。俺はミルトン・マーレッジっていうんだけれど、何も病気なんてないんだ。誤解だよ」


「わ、私もです。マリゼブ・ランマークといいますが、一度も仕事を休んだこともないほど丈夫なんですよ。これは何かの間違いです!」


 ミルトンとマリゼブは我先にと、診察や治療の必要のないことをアピールするが、それでもセレネースは万年雪を頂く高山のごとく少しも動じることはなかった。この程度の事態は想定済みである。


「わかりました。では、あそこで登山活動に励んでいるお嬢様が、なんらかの疾患を患っているのでしょうか?」


「ネシーナが!? いやいやいや、そんなことはあり得ません。風邪ひとつろくに引いたことのない、これ以上ないくらい健康的な子なんですよ。お転婆すぎるのが玉に瑕なんですけど……」


「ママ、うそはよくない!」


 突如ソファの峻険な峰から飛び降りた小さな登山家がダッシュで母親の背後にへばりつく。


「な、何を言い出すのよ、ネシーナ。嘘なんかついてないでしょ? あなた元気そのものじゃない!」


「あたしのことじゃなくてママのことよ! うおりゃーっ!」


 言うが早いか小生意気な小悪党は、先ほどミルトンにしたのと同様、母親のズボンを引っ掴むと、ズボッとずり下りした。但し、今度は踵まで全て、だ、


「ギャーッ! やややややめなさいネシーナアアアアアーッ!」


 窓から差し込む夕陽を浴びて紅に燃える受付けに、マリゼブの悲鳴が木霊した。

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