カルテ139 グルファスト恋歌 その4

「うおーっ、はなせーっ! ぶれいものーっ! くっ、ころせーっ!」


「ごめんなさいね、ミルトン。最近街の子供たちの間で、変な遊びが流行っているの。ほら、どんな病いも癒してくれる、白亜の建物って伝説があるでしょう? あれに出くわしたって人が、この前うちの宿屋に泊まって、その話を聞いて以来、皆真似して遊んでいるのよ」


 うめき声をあげる我が子を両手で後ろ手に拘束しながら、マリゼブがすまなそうに頭を下げる。


「白亜の建物か……そういや小さい時、物語好きな母親から聞いた気がするな」


 ミルトンは周囲に目を配りつつ、せわしなくズボンを元の位置に戻しながら、過去の記憶をまさぐった。


「なんでもここグルファスト王国やお隣のザイザル共和国とかで、目撃譚が増えているんですって。何かの前触れかしら?」


「さあ、俺にはちょっとわからないけれど……」


「じゃあつぎはなんのあそびするー? ろうおうとどれいおんなごっことか、おーくとひめきしごっことか?」


「こら、ネシーナ! もうちょっと年齢相応の健全な遊びをしなさいっていつも言ってるでしょ! 本当に耳年魔なんだから」


「ハハハハ……」


 まるでファブリオーにでもなりそうな母子のやり取りに思わず笑いながらも、ミルトンはこの何をしでかすかまったく予想がつかない少女には注意せねばならないと肝に銘じた。もしもさっきズボンが下までずり下ろされていたなら、大変な事態になりかねなかった。注意一秒怪我一生、だ。


「それにしても、白亜の建物か……もし本当に実在するんだとしたら、一度お目にかかってみたいもんだな」


「あらっ、何か困っていることでもあるの、ミルトン?」


 おっといけない、遊びに巻き込まれないように話題をふったつもりが、藪蛇だったようだ。腋の下から冷たい汗が滲み出る。


「い、いや、なんか面白そうだと思ってね。一生に一度しか見れないって聞くし、単なる興味本位だよ」


「ミルトン、そういえばママもね……むぐぐぐ!」


「ネシーナ、大人の話に入ってきちゃいけません!」


 二人の会話に口を挟みそうになった娘の可愛らしい口を、マリゼブが飛鳥の如き素早さで、左手で塞いだ。ちなみに右手は彼女を取り押さえたままだ。


「ど、どうしたんだよ一体」


「ななな何でもないわよホホホホホ」


 もがき続けるじゃじゃ馬娘の口元を押さえつけたままのマリゼブの引きつった笑みと上ずった声からは、とても何でもないとは考えられなかったが、ミルトンは敢えて追及するのをやめた。こっちだって脛に傷持つ身だ。お互い、この歳になると秘密の一つや二つくらいあっても不思議ではない。もっと親密度が増せば、そのうち教えてくれる時も来るだろう。


「ただ、最近仕事帰りに夜道を歩いていると、後ろから人の気配を感じる時があるのよね……」


 相変わらず脱出しようともがくネシーナと奮闘しながら、マリゼブが並々と注がれたコップから思わず零れ落ちた水滴のように、ポロリと穏やかでない言葉を漏らした。


「ええっ、そりゃ危ないよ! 襲われたりはしなかったのかい!?」


 ミルトンは、つい身を乗り出して尋ねた。


「別にそういうことはないんだけどね。背後を振り返っても何もいないし。もっとも暗くて良く見えないからかもしれないけど」


「心当たりはあるの?」


「さあ……」


 マリゼブは言葉を濁し、口を閉ざした。別に野暮な男ではないミルトンも、ふと事情を察し、それ以上聞かないことにした。バツイチの女性をつけ狙う人影とくれば、自ずと答えは明らかである。


「今日は家まで送っていくよ」


 そう答えるだけに留め、彼は自分に任せろと言わんばかりに、自らの胸に右の拳をドンと当てた。


「ありがとう、ミルトン。でも、うちは官舎とは反対方向だし、そこまで無理しなくていいわよ」


「いやいや、小さな可愛い娘さんもいるんだし、もし何かあってからでは遅いよ。大丈夫、ちょいとばかり帰りが遅くなってもバレやしないからさ」


「そう……じゃあ、お言葉に甘えてもいいかしら、男爵殿?」


「ハハハ、後継ぎじゃないから男爵でも何でもないけどね。喜んで護衛いたしますよ、レディ」


「バカね、ミルトンったら……」


「マリゼブ……」


 潤んだ瞳でお互いを見つめ合う二人の間にとろける蜜の如き甘い空気が漂い、日没寸前の幻想的なシチュエーションも相まって、世界は非常にラブラブな雰囲気に満たされていた。


「はぐあーっ!」


 そんな恋愛小説のクライマックスもかくやという場面を台無しにしたのは、一人蚊帳の外状態だった少女の猛るドラゴンの如き咆哮だった。

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