カルテ138 グルファスト恋歌 その3
いつも早朝に跳ね橋を渡って城門をくぐり、日も沈んだ頃に街へと帰っていく彼女のことを、門番であるミルトンは、もちろん以前にも見かけたことは何度もあったが、その他大勢の人々と同じく、気にも留めなかった。十人並みの容貌ではあるが、誰もが振り返る美貌の持ち主というわけではなく、体格もぽっちゃりとしており、視野に映ったとしても何の感慨もわかなかったのである。唯一他の人々と異なる点といえば、女性なのにいつもズボン姿ということだけだったが、それも敢えて指摘されれば気づくという程度のものだった。
しかし、付き合いだしてから、彼女を見かけるたびに、彼の心にささやかな喜びが生まれるようになった。明け方や灯ともし頃に栗色の髪の女性を目にすると、思わず口元が緩み、胸の奥底から何か温かいものが湧き上がってくるような気がした。門番は基本二人一組のため、あからさまな合図を送ることは出来なかったが、すれ違う一瞬、彼と彼女の間にしかわからない空気の震えのようなものが確かに感じられる時もあった。さすがに職場で大っぴらに語り合うことは無理であり、時間的余裕もないため、休日に街の酒場や公園、劇場などで逢瀬を重ねるようになり、二人は少しづつ距離を縮めていった。
マリゼブがバツイチの出戻りで、宿屋を営む両親とともに、前の夫との間にできた一人娘と一緒に暮らしていることもじきに知ったが、ミルトンはさして動揺しなかった。自分より少し年下の、もう若いとは言い難い年齢である彼女が、それまでの人生で何もなかったことの方がおかしいと思っていたし、彼女の体形は、明らかに子供を産んだ経験のある女性のものだった。それに、数多くの甥っ子や姪っ子に会うことが多く、元来子供好きの彼にとって、コブの一つや二つ、むしろ楽しみだった。
なんでも前の夫は靴職人だったが、ものすごい酒乱で殴る蹴るの暴力沙汰は日常茶飯事であり、まだ小さな娘にも手を出すようになったため、ついに耐え切れず、子供と一緒に実家に逃げ帰ってきたとのことだった。その後だいぶ揉めたようだが、彼女の両親が多方面に顔が利き、あちこちに手を回してくれたため、相手の両親並びに前夫もしぶしぶ離婚を承知したというわけだった。
「最初は陽気でいい人だと思っていたんだけどね、一旦お酒が入ると人間が変わっちゃって、手が付けられなくなるのよ。手当たり次第に物を投げつけてくるし、大猿みたいに喚くし……おっと、ここで愚痴る話題じゃなかったわね、ハハ」
「いや、いいよ、気にしなくて」
安酒場で夕食を食べながら、二人はそんな会話を交わしたものだった。
そんな悲惨な過去の境遇を聞きながら、それでも明るさを絶やさないマリゼブへの想いがどんどん強まっていくのを抑えることは出来なかったが、それでもミルトンは、まだ彼女を抱こうとする勇気が出なかった。別にお互いうぶな若者でもなく、初めて同士というわけでもないのだし(ミルトンはプロしか相手にしたことはなかったが)、遠慮する必要などないと、頭の中ではわかっているのだが、どうしてもその一歩を踏み出せなかった。
何故なら、彼には彼女にまだ伝えていないことがあったから……。
「それじゃみんなでいっしょにはくあのたてものごっこをしましょう。あたしがおいしゃさんやくをするから、ミルトンはかんじゃさんやくをやってちょうだい。ママはかんごしさんやくね」
「ちょ、ちょっと何だよいきなり!?」
しばしの間追想にふけっていたミルトンのズボンを、おしゃまな娘さんが唐突にズリズリと下ろし始めたため、彼は慌ててベルトを引っ掴んだ。
「おやおや、ちょーっとじゅくじゅくしているようですねー。おにいさん、あそびすぎじゃないですかー? こいつはたいへんだー。おーいかんごしさん、このあばれんぼうをきりおとすから、なんかはものをもってきてくださいねー」
「どこ見て言ってるんだよお嬢ちゃん!?」
「こらっ、いい加減にしなさい、ネシーナ!」
ミルトンの大事なところをジロジロと無遠慮に覗き込んでいた小悪魔の襟首を、さすがにあきれ返った母親がむんずと引っ掴み、蛮行を阻止した。
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