カルテ137 グルファスト恋歌 その2
「本当にごめんなさいね、ミルトン。お昼の約束だったのに、こんなに遅くなっちゃって……事情は娘が言った通りだけど、中々離してくれなくって、せがまれるままズルズルと遊んでいたら、こんな時間になっちゃったのよ」
頭を下げてしきりに謝る恋人に対し、ミルトンは先ほどまでの不安はおくびにも出さず、「いや、気にしないでよ。多分そんなことだろうと思って、のんびり雲を眺めて待っていたよ」と度量の大きいところを見せるしかなかった。
彼ら二人が知り合ったのは、今から二カ月ほど前の、ある暑い夏の日のことだった。高原にあるため他の都市よりも夏場は涼しく過ごしやすいと言われることの多いここドグマチールも、さすがに幾日も続く炎天下の下では、街中が沸騰した大鍋の底と化したかのような、そんな記録的な猛暑のさなかだった。
殺人的な陽光を遮る物など何一つない中で、早朝に交代してからずっと立ち尽くしているミルトンは、王宮の人々が全て朝食を終え、ドルコール王が政務を開始する時刻には、既にグロッキー状態であった。東に面して建てられた城門は、無慈悲にも午前中は彼にはまったく影を落としてくれず、彼の眼前を流れる跳ね橋の下の水路からもさわやかな風はそよとも吹かず、むしろゆらゆらと陽炎が立ち上る有り様だった。
兜の中の頭と鎧に覆われた身体は共に蒸し風呂状態であり、汗がダラダラと絶え間なく全身を流れ落ち、体内の貴重な水分を容赦なく奪っていった。交代時間の正午はまだ果てしなく遠く、しかも普段は二人一組なのに、今日に限って相方は体調を崩して休みであったため、少しの間抜け出して、水分補給することも叶わなかった。
「し、死ぬ……」
求道者の如く直立していた彼も、暑さと脱水による疲労感でめまいを生じ、ついに耐え切れず、地面に膝をつき、うめき声をあげてしまった。視界全体がグルグルと回り、煙のように揺らめいている。だから門の側を通りかかった女性が彼の異変に気づいて足を止め、こちらに駆け足で近寄ってきたときも、てっきり幻覚か何かかと思ったほどだった。
「大丈夫ですか、門番さん!? しっかりしてください!」
やや肉付きの良いその幻影は大声でミルトンに呼びかけると、彼の乾ききった唇に、手に持った素焼きの瓶の口を当て、中の液体を流し込んだ。
「んぐぐぐぐ、ふぅ~っ!」
彼は音を立てて一気にミルクを飲み込むと、身体の奥底から生じた深いため息を吐き、ようやく我を取り戻した。
「助かったよ……しかしこのミルクは一体……?」
「それは、今晩の宴会で演奏してくれる楽師の方々に持っていくよう料理長に言われたものです。皆さんこの暑さで喉が渇いているだろうって」
ほがらかな女性の声を耳にし、ミルトンは一気に青ざめた。
「な、なんだって!? そんな大事なものを俺のためなんかに使ってしまっていいのか!?」
「かまいませんよ、皆さんきっとわかってくれます。それに……」
「それに?」
「立ち仕事の辛さは、自分もよーくわかってますから」
女性の共感的な態度は、家族にもないがしろにされ、今まで寂しい人生を歩んできた独身男の心に、ミルク以上にスーッと染み込んだ。
熱中症で、あと少しで生命の危機すら迎えるところだったミルトンを間一髪救ってくれた女神ことマリゼブ・ランマークは、標準よりもふくよかな体格ではあったが、底抜けに明るい笑みをいつも湛えている、包容力のある、太陽の様な女性だった。ファンガード城の厨房で、皿洗いや食器の出し入れや片付け、掃除などの下働きをしている三十代の彼女は、街の宿屋「汗血馬の尻尾」亭の娘で、実家から王城まで通っていた。
この日をきっかけに、二人は交際を開始した。言い出しっぺはミルトンの方だったが、マリゼブにその気があったのも確かであった。それはごく自然な成り行きで、季節が冬から春に移り行くが如くであった。お互い三十代で、職場も同じであり、話が合ったのも大きかったかもしれない。同僚たちに冷やかされながらも、ミルトンは遅く来た春の喜びを噛みしめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます