カルテ136 グルファスト恋歌 その1
「おそいな……」
青色に染色された革で作られた兵士用の服に身を包み、フロリード池の岸辺に腰を下ろしている、顎鬚をはやした角刈り頭の屈強な中年男は、落ち着かない様子でつぶやいた。つい先ほどまで青々としていた空は、早やもう朱に染まりつつあり、秋の日暮れが急速なことを、彼に思い起こさせた。
湖のように大きな池の対岸に、岩の如くそびえ立つ王城ファンガードも朱金色に輝き、その無骨ながらも優美な姿を水面に落としている。彼、すなわちミルトン・マーレッジの職場だ。
ファンガード城はここグルファスト王国の首都たる城塞都市ドグマチールのシンボル的な存在で、五つの尖塔を持ち、初めて見たものはその美しさに胸を打たれるが、それは実用の美であり、数百年前のインヴェガ帝国大侵攻の折も、決して敵に屈することなく連合軍が到着するまで耐えきった、難攻不落の名城だった。現在は賢王と名高い老王ドルコールが城主であり、70近いとはいえ、まだまだ若い者には負けんぞとばかりに狩りや練兵に積極的に取り組み、その健在振りをアピールしている。
ミルトン・マーレッジはグルファスト王国の男爵家の三男坊で、家督を継ぐことはできないが、武術が得意なため、強者が大好きな老王の特別の計らいで、城の門番を勤めていた。
彼は再び辺りに目を向ける。城や街はおろか、周囲数キロはありそうな巨大な池すらもぐるりと取り囲む堅固な城壁が、暮れなずむ夕空の下、黒々と地面に長い長い蛇の如く寝そべっている。マリゼブの家は、あの城壁付近とのことだが、もう家を出ただろうか。
今日は彼だけでなく、彼女も非番だというので、彼女の家近くのこの場所で落ち合う約束だったというのに、一体どうしたというのだろうか。何か厄介ごとでも起こったのだろうか。なんだかそわそわしてきたのは、いつものやつのせいばかりでもなさそうだ。
「こんな時、声を届ける魔法の護符でもあればなあ……」
ミルトンが、顔に似合わぬロマンティックな夢想を口にしたとき、ようやく街の方向から池に向かって走って来る人影が目に飛び込んできた。ただし……
「ん?」
彼は思わず目を擦った。茶色いベストと緑のズボンを履いた栗色のショートボブの女性は間違いなく待ち人のマリゼブその人に間違いないが、その後ろから野兎みたいにピョンピョン跳ねながらついてくるのは、どう見ても五歳くらいの小さな女の子だ。マリゼブと同じく栗色のショートヘアで、白いワンピースを泥だらけにしながら満面の笑みを湛えて走っている。
「あれは確か……ネシーナだっけ?」
彼は一度だけマリゼブから聞いた、彼女の娘の名前を脳裏に呼び出した。同年齢の男の子たちを遥かに凌駕するおてんば娘だと苦笑していたが……
「ミルトーン!」
彼の名を大声で呼んでいるのは、果たして母親の方か娘の方か、それとも両方だろうか?
「ごめんなさいねー、どうしてもついていくっていいはっていうこときかないから、おくれちゃったのー」と言っているのは、間違いなくマリゼブの方……だと思ったら、口の動きからしてどうやら娘のネシーナの方らしいとわかって、ミルトンは思わずひっくり返りそうになった。
「こらっ! なんであんたがその台詞を言うのよ! このおちゃっぴい!」
直後にマリゼブの怒鳴り声が聞こえ、接近する足音まで響いてくるほど近づいてきた。それにしても本当によく似た声質の親子だ。もし背後から声をかけられたら、どちらか判別するのは、恐らく不可能だろう。
「ハハハハ、噂に違わぬ元気なお嬢さんだね。初めまして、ミルトン・マーレッジです」
彼は魂の底から笑いながら、いつの間にか母親を追い抜いて彼の腕の中に飛び込んできた小鬼をキャッチした。
「こちらこそはじめまして! ネシーナ・ランマークよ! 五さい! ママはパパとあたしが三さいのときにりこんしちゃったから、いまはママとおじいちゃんとおばあちゃんとあたしの四人でいっしょにすんでいるの!」
ドングリのような色と形の瞳をクリクリと動かしながら、こまっしゃくれた少女はハキハキと、聞いてもいない個人情報を立て板に水の如く、初対面の人物に教えてくれる。娘の後ろで苦笑いしながら立っているマリゼブを見て、ミルトンは彼女の苦労をおもんばかった。
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