カルテ161 新月の夜の邂逅(後編) その5
「これは……かなりまずい状況ではないか? あのクソ猫は正直ムカつくエロジジイだったが、何だかんだいって今までいろいろと助けられた恩もあるし、なんとか助けてやれないか、イレッサ?」
「それにこのままだと、多分僕たちまでバッタの餌食になってしまいますよ! いくら虫だからって、数の暴力は馬鹿にできませんからね。僕からもお願いします!」
外の惨状に眉をひそめた二人が、ハイ・イーブルエルフに懇願する。
「んも〜、ったくしょうがないわねー。これはとっておき中のとっておきだったんだけど、愛しいミラちゃんとシグちゃんの頼みなら、出し惜しみなんてしてらんないじゃないのよー」
玄関の隅で座っていたイレッサはやれやれという感じで両肩を大げさにすくませると、唐突にこんなことを語り出した。
「これは、あたいが旅の途中でとある海辺の町にナンパしに行った時のことなんだけど、筋骨たくましいむくつけきビーチボーイを言葉巧みにゲットしようとしたら……」
「んなこたどーでもいいだろーが、腐れ大根!」
「オゲーっ、それ以上聞きたくないのでやめてください!」
「あらあら、ここからが大事なのに……ま、いいわ」
ふてくされたようにため息を吐くと、イレッサはやおらすっくと立ち上がり、死の群れが渦巻く外へ飛び出していった。
「その時獲得した強大魔法がこれよ! メドロール!」
野太い呪文の詠唱とともに、どこからともなく忽然と出現した人間の身長の数倍はある巨大な津波が、その場に存在する全てのものの上に崩れ落ちてきた。
「……!」
人は、前準備もなしに自分の想像を超えた現象に遭遇すると、理解を拒んだ脳が麻痺してしまうことがある。今のシグマートがまさにそうだった。建物を優に超える高さの白い豪腕が、圧倒的な破壊力でもって地表を蹂躙するさまを、呆けたようになすすべもなくただ見つめていた。蟻にまとわりつかれた砂糖もしくは蠅にたかられた汚物もかくやという状態のフシジンレオに襲い掛かった大波は、たちまちのうちに表面の虫を洗い流すとともに、赤毛の獅子自身も、まさに濁流に呑まれた蚊のごとく、勢いよく地面に叩き付ける。
「ギャンっ!」
まるで尻尾を踏まれた犬のような老獅子の情けない悲鳴は、滝壺で轟いているかのような轟音に、瞬時にかき消された。
「フシジンレオさん、大丈夫ですか!?」
ようやく我を取り戻したシグマートが叫んだとき、恐るべき無慈悲な水のかいなは彼の身体をも捉えつつあった。
「ひえっ!」
マンティコアと出会ったラボナール平原で、自分を二度も襲った竜巻の恐怖がよみがえる。
「あたいにしっかり捕まって、シグちゃん!」
野太い声と同時に、むんずと褐色のたくましい手が少年の華奢な腕をひっつかむ。全身に豪雨のように水流が降りかかり、あわや息もできないかと思われたが、イレッサの巧みな誘導によって、シグマートは水面の上に顔を出した。
「イ、イレッサさん、これっていったい……!?」
「言わなかったっけ? 津波の魔法よ。馬鹿にならない量の魔力を食っちゃうので、あんまり使いたくなかったんだけど、あの大量のバッタを一度に退治するにはこれしかないわ」
「でも、フシジンレオさんは……」
「フシちゃんなら腐っても魔獣だし、これくらいじゃ死なないわよ」
「しかし、ちょっとやりすぎじゃないですか? 皆溺れ死んじゃいますよ!」
「あたいたちハイ・イーブルエルフ族や、ミラちゃんたちイーブルエルフ族のことなら心配ご無用よ。生まれつき皆泳ぎが得意で、カエルも顔負けなのよ。波の衝撃で幻覚の護符の効果も消えるでしょうし、むしろ一石二鳥よ。それっ!」
迫りくる暴竜の化身のごとき白銀のうねりに身体を持ち上げられながらも、イレッサはシグマートの手を握ったまま、巧みに水流を突き進んだ。
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