カルテ162 新月の夜の邂逅(後編) その6

 今や建物前の広場は、即席の海と化していた。否、単なる海ではない。歴戦の船乗りでさえ恐れおののく、死の馬がたてがみをはためかせる大嵐の海だ。どこからともなく押し寄せる大波が、雲間から顔を出した星々の光に波頭を白く輝かせ、地表を洗い流していく様は、ある意味幻想的かつ神秘的とも言えた。


 荒れ狂う海の面にはバッタの群れがそこかしこに浮かび、ひっくり返ってもがき苦しんでいた。何とか再び飛び立とうとするも、その努力はあまりにも空しく、力尽きたものは次々と波に呑まれ、沈んで消えていく。獅子の身体と思しき赤毛の塊が、そんなバッタの死骸に囲まれて波に揺られている姿が遠目に見えた。あちらに僅かに感じた、今夜は存在しない月の光にも似た白金のきらめきは、ひょっとするとミラドールの頭だろうか?


「すごい……」


 少年は、伝説の種族が放った禁断の大魔法を目の前にし、素直な心情を吐露した。


「伊達に160年近く生きてないからねー、これくらい軽いもんよ……ってわけでもないけどね。これでもう、今夜使える魔法はしけたのがせいぜい一回くらいね。とにかこれで、見張り台の上のあいつらも沈められたら、一石三鳥かしら?」


 鼻高々に自慢げに述べながら、イレッサは海の中で唯一顔を覗かせている灯台のごとき岩山の方を、濡れた顎で示した。



「ほう、妙な格好をしただけの道化者かと思ったが、どうしてどうして、意外とやりおるわ。このわしの魔法を魔法で強引にねじ伏せるとは……」


 岩山の上の見張り台では、銀仮面を付けた黒装束が、愉快そうにつぶやいた。今や波しぶきは彼の足元にまで迫り、粗末な木組みの台を地震のごとく揺さぶっている。このままでは、いつ海面に投げ出されるかわかったものではなかった。


「グ、グラマリール様、水が押し寄せてきております! いかが致しましょうか?」


 傍らに侍るクラリスの両脚は細かく震え、その口調からは先ほどまでの冷静さが失われつつあった。


「む、そうか、お主は泳げなかったな、クラリス。すまんな、わしとしたことが忘れておったわ、ククっ」


 グラマリールは銀仮面の下から忍び笑いを漏らすと、顎に左手を当てた。


「いえ、私のことなぞどうでもよいのですが、こうも足場が悪いと、戦闘にも支障をきたしますし……」


「案ずるな、これくらいの波ごとき、鎮める方法はいくらでもある」


 学院長は笑いを止めると即座に真剣さを取り戻し、聞く者の心胆寒からしめる低い声を発した。


「えっ、そうですか……?」


 一流護符師でもある学院長付秘書が、驚きの声を上げる。たとえ彼女でも、暴れまわる波を制御する魔法など聞いたこともない。耳を疑うのも無理はなかった。


「クラリスよ、お主もまだまだ修行が足りんな。心を静めてよく考えれば、危機を乗り越える方向が自ずと見えてくるものだ。例えば眼下に押し寄せてくる津波と全く同じ強さの津波の魔法をぶつければ、お互いを打ち消し合うため、波を消失させることが出来るだろう。しかしさすがのわしといえども、そう都合よく同程度の津波魔法などは現在持ち合わせてはおらん。また、そんなことをすればこの仮初めの海水の量を倍加することになり、この高台も水に呑まれてしまうだろう。


 だが、今述べたのはほんの一例に過ぎない。複数の手段を臨機応変に思いつく者こそ、実力者と呼ぶことが出来よう。武器は多ければ多いほど良いというからな。どれ、わしが今から真の護符師の戦いというものを見せてやろう」


 まるで学生に対する講義のごとく滔々と述べると、百戦錬磨と謳われるグラマリールは、先ほどのおぞましきドブの色にも似た護符を高々と掲げ、こう宣った。


「これははるか昔、わしがミカルディス公国の、この世の地獄とも呼ばれるバレオン砂漠を彷徨っている時、偶然入手した魔法だ。まさかここで使う羽目になろうとは思わなかったがな。リオレサール!」

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