カルテ163 新月の夜の邂逅(後編) その7

 絶壁を数百の岩が転がり落ちてくるかのようなガラガラ声の解呪と共に、汚濁の色の護符から、今度は黒い水のようなものが大量に噴き出した。闇を封じ込めたような漆黒の液体は、水飴のようにねっとりとしており、荒れ狂う水面の上に時ならぬ豪雨となって降り注ぐ。


「な、なんだあれは!?」


 自らも黒い雨を頭部に被ったミラドールは、その不快な臭いと感触に眉をしかめる。


「油……かしら、これって? 変な色ねー。まるでイカの墨入り料理を食べた後のう○ちみたいだわー」


「そこは普通にイカの墨みたいでいいでしょう、イレッサさん!」


 こんな非常時にもかかわらず、シグマートが両足をばたつかせ、浮き沈みしながら突っ込みを入れる。


「でも、そういえば聞いたことがあります。確かどこかの砂漠には黒い池があり、その水はよく燃えると……!」


「「ええっ!?」」


 二人のイーブルエルフ族の顔が、一瞬で蒼白となる。


「じゃ、じゃあ、奴の目的は私たちに黒い油をぶっかけた後、火を放って一網打尽とすることか!?」


「十中八九そうだろうけど……でも、この岩山にも覆いかぶさるような桁外れの大波じゃ、自分たちまで炎に焼かれちゃうんじゃないの?」


 イレッサが珍しくまっとうな指摘をする。


「で、でも、見てください、波が……!」


 シグマートが、油にまみれた震える指先で文字通り墨を流したような海面を指し示す。


「そ、そんな……!」「ば、バカな!?」


 一同は再び驚愕に包まれた。なんと、あれほど手負いの竜のように猛り狂っていた荒波が、徐々に、徐々に静まっていき、岩山に噛みつかんばかりだった白波もその剥き出しの牙を収め、表情を変えつつあった。


「ど、どういうことなんだ、この現象は……!? 僕の知らない何か特殊な魔法だとでもいうのか……!?」


 天才を自負していた少年も、今や未知の恐怖の前に、何もわからない子犬のごとく不安げな声を漏らし、想像をはるかに超える敵の力に恐れ戦くのみだった。



「古来より、船乗りたちは海が荒れて大時化の時に、とある行動をとって波を鎮めたものだ。知っておるか、クラリス?」


「いいえ、恥ずかしながら寡聞にして存じません、学院長様」


 黒大理石から掘り出した彫像のように、見張り台の上でまだ護符を構えたままの姿のグラマリールの背後で、クラリスが片膝をつき、申し訳なさそうに返答する。


「やれやれ、護符師とは森羅万象あらゆる事柄に精通しておらねば、いざという時に最も適切な対応を取ることが出来んぞ。人生は死ぬまで勉強だ。よく肝に命じておけ」


「……はい、学院長様!」


「よいか、大嵐で船が座礁しかかった時、水夫たちは積み荷の中から油の入った樽を甲板までありったけ運び出し、その中身の全てを海に向けて惜しみなく流したのだ。すると不思議なことに、魔獣にも匹敵する狂ったような白銀の波が、次第にその力を弱めるのだという。水と相容れぬ油が波の上を覆うためかも知れぬが、詳しいことはわしもわからぬ。だが、護符がありとあらゆる自然現象を封じ込め、その恩恵に預かるのであれば、こういったことを原理などわからずとも知識として知っておいて損はない」


「さすが護符師の王たるグラマリール学院長様! 私のような若輩者など、偉大なる貴方様の足元にも及びません!」


 今や美貌の秘書は、見張り台の床に頭を擦り付けんばかりに師の影を拝み伏し、賛美の言葉を唱え続けた。

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