カルテ233 伝説の魔女と辛子の魔竜(後編) その14
話に集中していたエナデールの雑巾がけの手はいつの間にか止まっており、肩が小さく震えていた。
(不可抗力だったとはいえ、自分はなんて恐ろしい物をまき散らしてしまったんだろう……)
吸い込む空気が鉛のように重く、後悔の底なし沼に心がズブズブと沈んでいき、指一つ動かせなくなる。なるほど、確かに魔獣の存在意義とはインヴェガ帝国の大量殺人兵器に違いないが、だからといってこんな悪夢そのもののような厄災をもたらす能力が自分に植え付けられたのかと思うと、呪われた我が身を八つ裂きにしてもまだ足らない気持ちだった。
「どうされたのですか、エナデールさん。だいぶ顔色が優れないようですが」
絶望に打ちひしがれる哀れな元銀竜を現実に引き戻したのは、セレネースのもたらした気遣いだった。依然として感情というものをほとんど感じさせぬ声音ではあったが、飛び入りのボランティア娘が慣れぬ仕事に戸惑っているのではないかと案じているだろうことが十分に察せられ、エナデールは急いで首を横に振り、何でもないと無理に作った笑顔で告げた。
「えーっと、どこまで話しましたっけ? さて、マスタードガスは皮膚症状以外にも、眼や喉の粘膜にも作用します。前者に対しては充血や結膜炎、疼痛、酷い場合には失明をおこし、後者に対しては咽頭痛、乾性咳、つまり空咳、そして呼吸困難を生じさせます。さらには消化管にも悪さをして、嘔吐や下痢を引き起こします。まったくもって厄介としかいいようがありませんね」
「……ひど過ぎますね。なぜそのような悪魔のガスが、ホンダ先生の世界で作られたのですか?」
かろうじて気力回復したエナデールは、一番気になっていたことを、本多が一息入れた瞬間を見計らって質問した。異世界にも魔獣創造施設と同等の、悪鬼羅刹の如き人道に背いた研究所があったのだろうか?
「そりゃもちろん戦争で使うためですよー。元はと言えば僕の世界で百五十年ほど昔、ビールとソーセージが美味しくって、やけにボードゲーム作りが盛んなドイツって国の科学者が、初めてこのガスの製造に成功しました。かの国は毒ガス兵器の発明に関しては、常に他の国に一歩先んじていまして、その有用性を重視し、百年ほど前世界中がドンパチしていた第一次世界大戦って戦争のさなか、イーブルってとこで初めて敵国に対して使用し、約三千五百人の中毒者と百人近い死者を出し、他国から非常に恐れられました。ちなみにこの地の名前を取ってイベリットとも呼ばれます」
「確かにイーブルエルフは邪悪ですからねえ……」
話に聞き入っていた患者の老婆までもがやや的外れな感想を述べる。
「そりゃあまり関係ないと思いますよおばーちゃん! とにかくこれ以降、多くの国が競ってマスタードガスを生産するようになり、他の毒ガスの開発もエスカレートしていき、さながら戦場は毒ガス祭りと化していきます。犬や馬まで毒ガスマスクしていたり、戦闘時は気候に気を配ったりなど、結構面白い逸話も多いんですけどねー」
興に乗った講師は、傍に立てかけられていた机を叩かん勢いで、流れるように一気にまくし立てた。
「……あの、ホンダ先生、お話の途中申し訳ありませんが、ちょっとよろしいでしょうか」
恐る恐る家主のローガンが切り出さねば、彼の講釈は多分翌朝になっても続いていたことだろう。
「……はい、何でしょうか?」
水を差されてやや不機嫌となった本多が若干唇を尖らせる。
「私事で恐縮ですが、実は自分の幼い息子も奇病に侵されており、ぜひ診察していただきたいのです。何とかお力添えを……」
「ほほう、すぐ案内してください!」
珍しい症例に目がない医師の垂れ下がっていた双眸が突如持ち上がり、キラーンとばかりに輝きを放った。
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