カルテ113 死せる少年 その7
アルトが光り輝く玄関前に立った時、いきなりドアが開いてパンツ一丁のスキンヘッドの痩せた中年男が姿を現すと、彼の脇をすり抜け、「海だ! 南国だ! リゾートだ! 水着回だ! ヒャッハー!」と歓喜の叫びを上げながら、颯爽と夜の海に向かって突き進んでいった。
瞬間的に思考停止状態に陥った少年は、すぐその後を、白衣を身に纏った赤毛の女性が、「待ちなさいこのバカハゲ、せめて仕事してからにして下さい」と、冷然とした声で呼びかけながら、中年男以上のスピードで飛び出してくるのとぶつかりそうになったため、我に返った。
「あ、あの……ここって、いわゆる伝承で有名な白亜の建物で合ってますよね」
「おっしゃる通りですが、ただいま取り込み中ですので、申し訳ありませんが後ほど問診いたします。失礼」
そう言い残すと、美女ことセレネースは、流れるような長髪を潮風になびかせ、グルファスト産の赤毛馬のように、砂浜をわき目も降らずに猛進し、今まさに海中にダイブしようとしていたハゲ男のトランクスをぐいっと鷲掴みにした。
「わわ、セレちゃん、脱げちゃうよ! 逆セクハラでミートゥーだよ! リベンジポルノだよ!」
「バカなこと言ってないでちゃんと診察しないと、今掴んでいる物の中身をメスで切り落として、釣り針に引っ掛け魚の餌にしますよ」
「やめてよ、つい想像しちゃったじゃないか! それで釣った魚なんか食べたくない!」
坊主頭こと本多医師の顔が一気に青ざめる。
「私だって嫌です。それにしてもどうしていきなり泳ぎたくなったんですか?」
「だって今年の夏は忙しすぎて、一度も海もプールも行けなかったんだよ! やっぱ男の夢は南国リゾートで美女と漂流で青い珊瑚礁で藍蘭島で隙だらけでしょう!」
「だいぶ偏った夢なので却下します。さあ、行きますよ。患者様がお待ちかねですよ」
まるで部下に命令する将軍の如く指示を下した赤毛の看護師は、パンツを必死で抑える無様な医者をずりずりと引きずりながら、あまりの予想外の展開にぽかんと口を開けて突っ立っている少年の元へと近づいて行った。
「へーっ、じゃあ君は、えーっと名前を忘れちゃったけれど、あの山荘で働いていたメイドさんの弟君だったんですねえ」
「フィズリンさんですよ、まったく失礼な」
やや垂れ眼を大きくする本多に、セレネースが冷たく突っ込む。ほっそりした月影に照らされ、時折真珠のようにきらめきを放つ海を臨みながら、いつの間にやらなし崩し的に、砂上で奇妙な診察が始まっていた。
(……ってことは、ルセフィとかいう女吸血鬼の言っていたあの山荘の話は本当だったんだ)
自分に関する打ち明け話を、大まかだが一通り終えたアルトは、心の中で、今まで半信半疑だったことを、ルセフィに対して謝った。
「いやー、すいませんねー、人の名前を覚えるのが、昔から苦手なもんでして。しかしこの格好はスースーして気持ちいいですな」
とりあえずパンツの上に白衣だけ纏った本多医師は、「そういや雨の日だけ仕事するこんな格好したお医者さんの漫画がありましたっけねー」と欠片も要領を得ない発言をし、セレネースに睨まれていた。現在三人は、月下の砂浜の上に腰をおろし、潮風にあたりながら輪になっている。いいのか、これで、と少年はとても突っ込みたかったが、診察が進まなくなるのでとりあえず我慢した。
「あっ、そうそう、つい最近、売名声優とかいう名前の、あなたの二番目のお姉さんにもお会いしましたよ。『やっと本物が来てくれた!』って歓喜雀躍してはしゃぎまくってましたけど。さっき君が話してくれたように、僕の偽物が、どこぞのちりめん問屋の御老公みたいにいるんですってねー。怖い世の中だわー。ちなみに歴代の偽御老公の中で一番好きなのは、指パッチンする人でしたけどねーって古いか」
「ええっ!? バイエッタ姉ちゃんにも会ったんですか!?」
これにはアルトも本当に驚いて、突っ込みのことも忘れてしまった。
「はい、ちょうど君は実家におられなかったようでしたけどね。だから、さっきの君の話の前半部は、悪いですけれど皆彼女から聞いて知っていたんですよ。女吸血鬼さんとか狼男さんのこととかね。確かに偽・白亜の建物から貰った注射器のおかげでだいぶ元気になられたようでしたけれど、やっぱり感染症が怖いんで、新しい注射器を数本と、ついでに糖尿病治療薬をいくつか渡しておきましたんで、ご安心を。お礼に僕の禿げ頭にキスしてくれましたよ。いやーん、まいっちんぐ」
彼はキラキラと歯を、じゃなかったつるっ禿げを月光を受けて光らせながら、顔をにやけさせる。
「ついでに噛んでもらえば、少しはバカも治ったんじゃないですか?」と彫像のように不動の看護師が、辛辣な口を利く。
「酷いよセレちゃん! 彼女も本当は一族に代々伝わる貴重な護符を差し上げますなんて言ってくれたんだけれど、どうやら探してもどこにも見当たらなかったようで、代わりに口づけになったんじゃないか!」
駄々っ子のように反論する医師を横目に、そういや昔、酔っぱらった親父が、「これ大事やから絶対持ち出したらあかんぞ!」と家宝の護符なる代物を棚の奥から出して見せてくれたっけ、とアルトは思い返していた。ひょっとしてネズミにでも齧られて消えてしまったのだろうか?
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