カルテ112 死せる少年 その6

 だが、よく見ると燃えているのは、まるで大理石で作った彫像のように白く、血が通っているような感じを受けない、不思議な足だった。一瞬、本当に石像を燃やしているのかと疑ったが、あんな石ころの塊が、たとえ油をかけたとしても景気よく燃え続けるはずがない。しかも、ドロドロに溶けていくふくらはぎの肉の下から、骨らしきものが覗いている。


(ま、まさか、ひょっとして……)


 少年は今一度、周囲に林立する彫刻群を血走った瞳で凝視した。そもそも人体彫刻とは美男美女に形作るのが普通のはずなのに、あまりにも下腹が突き出たオヤジ体型の禿げ頭とか、背が低く、十人前とはとても言えないブ男のものなど、やけにバラエティに富んだ作風揃いで、しかも異様にリアルである。生身の人間から型取りして作ったと言われても納得してしまいそうな完成度だった。


「あらあ、お父様ったら本当によく燃えるわね。よっぽど脂肪がついていらっしゃったのかしら?」


 焼けた火かき棒を暖炉内の足にぐりぐり突き刺すリリカが、水飴のように粘着質な口調で、甘く囁く。それを聞いた途端、アルトの疑いが確信に変わった。


(この吸血鬼は、メデューサのように人間を彫像に変えられるんだ! それも燃える彫像に!)


 腋の下に冷たい汗が滲み、全身が震え出して止まらなくなる。恐ろしくなって周囲に視線を泳がせると、タペストリーの上の白い影に、ゆらめく光がちょうどうまく当たり、その姿が露になった。


(人骨だ!)


 物言わぬ姿と化した骨達が、暗い眼窩をこちらに向けて、何かを訴えかけているようだった。


「あの子もお父様みたいによく燃えるのかしら? もう少し太らないと火力が足りないかもね」


 とろける蜜の声で、至高のバンパイア・ロードは薪代わりの親族の遺体に楽しげに語りかける。アルトの肝は、今や氷のように冷えついていた。ここは寝室ではない、磔刑の場だ。ここにいてはいけない。彫像に変えられ燃やされて殺され、その後に骨を飾られる! 脳裏にセディールの忠告が再生され、わんわんと頭蓋内に響き渡る。


「うひあはあああああっ!」


 彼は声にならない悲鳴を上げると、燭台を引っ掴み、部屋を訪れた目的も忘れて一切後ろを振り返らず、廊下を駆け出した。



 満天の星と三日月の下、どこまでも続く暗い海と砂浜が横たわっていた。砂浜の奥は鬱蒼とした森が茂っており、巨人のように高い木々に混ざるように、ちらほらと、あの白い花を咲かせたスネークルートも見受けられる。浜辺には一層のボートが乗り捨てられており、その傍にアルトは転がっていた。


「はあ、はあ、はあ……」


 彼は、疲れ切った身体を起こそうとするも、全く力が出ないため、諦めて再び横になった。本当に命懸けだった。無我夢中で吸血鬼の居城を飛び出した彼は、溶岩台地を駆け抜けて入り江のボートに飛び乗ると、必死の思いで漕ぎに漕いで、運よくこの、何処とも知れぬ浜辺に辿り着いたのだった。


(結局自分の居場所はあそこではなかった……でも、このままどんどん吸血鬼化していっては、家にも戻れない……この後俺は、どうすればいいんだろう……)


 寄る辺なき孤児のような少年は、自分のわだかまる胸の内を、闇に包まれた広大な海に向かってぶつけてみたくなったが、どうせ返ってくるのは太古の昔から永遠に繰り返す潮のざわめきだけだとわかっているので、無駄な力は使わずこのまま目を閉じようとした。しかし彼の内なる思いが運命神に届いたのか、ぬばたまの夜を薙ぎ払うかのように、突如砂浜の一角から、それこそ神の後光の如き輝きが生じ、彼の瞼の裏を真っ赤に染めた。


「な、なんだよいったい!?」


 反射的に飛び起きたアルトは、森の近くの砂上に、姉のバイエッタが恋焦がれていた伝説の伽藍、そしてつい最近その偽物に出くわし、実在そのものを疑いかけていた奇跡の存在、すなわち白亜の建物を、その眼に捉えた。


「ま、まさか本物なのか!? どうしてここに……?」


 偽物とはまったく違う神秘的な様子に、声が知らず知らず上ずって、唇がわななくのを抑えることが出来なかった。だが、その見たこともない様式の白い箱のような建築物が顕現する条件は、さすがに彼も知っていた。つまり……


「ここに病人がいるってこと!?」


 思わず周囲を見回すも、視線の届く範囲には、人どころか動物の影も形も見当たらず、黒くうねる海面と、思いがけぬ光輝に叩き起こされ怒ったかのようにひと際白く映える砂浜が、夜風に吹かれているだけだった。要するに、この場にいる知的生命体は、彼一人、ということだ。


「ひょっとして、俺の死人化現象を治してくれるとでもいうのか!? でも、本当に頼っていいものやら……」


 期待と怯えとためらいに翻弄される彼の胸中に、ふと、一番上の姉・フィズリンの笑顔が蘇った。いついかなる時も家族のことを真っ先に案じ、誰にも心配かけまいと常に浮かべていた笑みを。彼女は家族が病気にかかった時、白亜の建物が出現してくれることを願って、あの女吸血鬼一行と旅に出たのだ。


(今ここで、僕がせっかくのチャンスを袖にしたら、フィズリン姉ちゃんはきっと悲しむだろうな……)


 そう心に思い描いた時、少年の両足は滑るように砂上を進み、異世界の門へと向かっていた。

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