カルテ111 死せる少年 その5

「……というわけで、すいませんがその花をリリカ様の寝室まで届けて頂けませんか?」


 ある晩ロゼレムは、スネークルートの白い花を挿した同じく真っ白な陶器の花瓶を、アルトに差し出した。


「えっ、でも、俺が行っていいんですか? いつもみたいにロゼレムさんが持っていけばいいんじゃ……」


 入るのを止められている禁断の部屋に入っていいものかと、アルトは躊躇しながら答えた。


「私は生憎用事があって無理なのです。萎れないうちに早くお願いしますよ。ちなみにリリカ様はノックを嫌がるので、扉をそっと開けて入って下さい」


「はあ……わかりました」


 居候の身のアルトにはそれ以上反論できず、花瓶を右手に持つと、左手に燭台を持って、玄関ホールを出た。


 古城の中はどこも静謐に満ち、所々の壁龕に邪神デルモヴェートの陰気な像が飾られた長い廊下は、まるで地獄に続く洞穴のように思われた。金縁の大きな鏡が並ぶ人気のない豪勢な大広間を通る時は、あまりの優雅さに踊っている幽霊でもいるのではないかと身体が凍り付きそうになった。廊下から広間へ、広間から回廊へと、まるで夢の中の迷路の如く、城内はどこまでも果てしなく続く。


 大理石の円柱が林立する荘厳な礼拝堂や、用途のわからぬ奇怪な錆びた器具が両脇に並べられた、湿った石の廊下を次々と通り抜けた。ロウソクの炎が隙間風に揺れるたびに、周囲の影が怪しくざわめき、幼い頃に聞いた人喰いの怪物達が、曲がり角から今にも飛び出してきそうに感じられた。


 そんな時、彼は心臓が身体中に広がって拍動しているかのように感じ、危うく燭台を取り落としそうになった。どうやら以前セディールから聞いた話がいけなかったのかもしれない。城主の聖域に自分如きがズカズカと乗り込んでいって、無事に済むとは到底思えない。


 こうなれば一刻も早いこと要件を済ませようと足に力を込めるも、一向に速度は上がらず、栄養不足のせいかふらつきまで生じる始末だった。呪われた歴史を持つ城で流された夥しい量の血が、彼にねっとりとまとわりついているかのようだった。


 いったいどれだけの角を曲がり、いくつの部屋を抜け、何段の階段を昇ったことだろうか。窓が全くない造りのためか、方向感覚もあやしくなってきたが、苦難の末、アルトはようやく目的地の前までたどり着いた。もう足がふらふらで、今にも倒れそうだったが、燭台を絨毯の上に置くと、最後の気力を振り絞って、魔獣の彫刻が施された、優美な造りの金のドアノッカーのノッカー部を鳴らさないよう気をつけながら、静かにドアを押し開いた。


 そこは寝室と呼ぶにはあまりにも広い、豪華極まる部屋だった。部屋の隅々に等身大の裸体の彫像が立ち並び、猫足の棚には漆が塗られ、天蓋付きのベッドは金糸銀糸で刺繍されたカーテンで覆われ、天井からはチューリップ形の古めかしいシャンデリアが吊り下げられ、四方の壁には様々な意匠のタペストリーが掛けられている。但し、タペストリーの上部に、なにやら白い影を見て、彼はなんだか薄気味悪い感じがした。


 そして、それら全てを明るく照らし出しているのは、燃え上がる炎だった。部屋の最奥にある大きな石造りの暖炉で、変わった形の薪が燃えている。白い絹の寝間着姿のリリカは長い鉄の火かき棒でそれを突きながら妖艶な笑みを浮かべていた。そこでアルトが感じたのは、強烈な違和感だった。


(おかしい……何故、吸血鬼が暖炉に火を!?)


 彼は、まだドアを全開にしていなかったので、その隙間から覗き見るように、リリカを凝然と見つめた。


(どうやら、まだこちらには気づいていない様子だな……)


 暗闇の中でも太陽の下のように全てを見渡すことが可能で、食事をする必要も風呂を沸かす必要もなく、たとえ極寒の地でも風邪一つ引かない不死の一族に、火ほど無用の代物はない。今までアルトは、イーケプラ城の中で彼以外の者が火を必要としている姿を見かけたことは一度たりとてなかった。いったい女城主はどうしたというのだろう?


(しかしあの薪、なんか人間の足に似ているような……ん!?)


 暖炉からいびつに突き出している物が微妙に気になった彼は、目を凝らしてみたが、あまりの恐怖に、思わず叫びそうになった。それは似ているどころの騒ぎではなく、五本の指を持つ、まごうかたなき人間の足そのものだった。


(に、人間を焚火代わりにして遊んでいるのか、この女吸血鬼は!)


 アルトはようやく、この時ならぬ炎の意味を悟った。

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